上記(No2)に関して、注疏では、以下のように解説している。
実際は、仏陀には、特別疑問はなかった。というのも、彼は菩提樹の
下で開悟した時、已に完全に、自己の煩悩を根絶やしにしたから
である。
当該の疑問は、単なる修飾的な意味合いしか持たない:「是否」は、
ただ修飾的に用いられているのである。未だ疑心のある人は、
究極的な悟りに到達する事はできない。故に、この部分は、
修飾的な働きのみであって、諸仏は、その智でもって、一切の、
自分が知りたいと思う事柄を、知ることができる。
上記の文章を参考に考えるに、仏陀は、10人、または12人くらいの
比丘が一か所において、共に住んでいるのを見たことが
無かったのかもしれない。(つづく)
訳者コメント:仏陀の一切智とは何か?について、色々意見がある
ようです。仏陀はどのような過ちも犯さないスーパーマンなのか?
それとも・・・私はあまり神格化したくない方ですが・・・、
タイで聞いた、ゴータマ仏陀の小さな失敗談・・・というのが
好きなんです(笑)。
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)