Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》4-1(70/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

第三章 業縁と異熟縁(三)

仏教の経典ーー

仏法は、その最も初期において、大迦葉尊者(Mahākassapa)が結集を主宰する事によって、伝承されて来たものである。

次に、大智慧者なる祖師大徳の方々が、(+その内容を)何度も繰り返し研究し、整理してきた。

現代に至って、仏法は非常に明晰に、また整ったものになった。

故に、我々が現代においてしなければならないのは、一門に深く入るようにして、それを研究し、それを体験し、それを実証しなければならないという事である。

経典に言う:

臨終の時には、三種類の境が出現する。

すなわち、「業」(kamma)、「業相」(kammanimitta)と「趣相」(gatinimitta)である。

(+出現するのは)その内の一つであるか、または二種類であるか、また三種類共出現する可能性がある。

故に、皆に、振り返って観察して頂きたい・・・あなた方の家族の中で、往生した時の、その様子を。

上記の事柄は、経典に基づいているのではあるが、しかし、経典は、人生に起こる状況を、書き写しているのである。

経典の中の業因

業因とは、先に造(ナ)された業の事である。

たとえば:

かつて、僧侶に道場を建造して、供養した事のある人、彼が供養をするその時、善の思心所は、比べるもののない程、清らかであり、喜悦に満ちたものであったに違いない。

彼の臨終の時、この善思心所は、彼に同じような心境を齎し、彼を善趣に往生できるように引導する。

故に、私は常々、皆に善き事を実践するように、と励ますのである。

たとえば、道場の開眼供養の発心、またはその他、己自身の能力の範囲内において、実践する事のできる事柄への発心、なるべく清らかな善事をなすのが良い。

世間的な付き合い、応酬では、善の思心所を生起させるのは、非常に困難であり、臨終においては、その心境は混乱し易い。故に、平常から練習しておく必要があるのである。

付き合いや応酬で行う善事は、善心所の力が弱いだけでなく、悪心所もまた増大する事がある。このような悪心所は当然、小さいながら、悪報を免れる事ができない。

故に、皆には、清らかな心念で、善を実践する事を、忘れないで頂きたいと思う。たとえば、今朝の托鉢においても、法師たちが、整列して隊伍を組んでいたのを、居士たちは見たが、それによって心内には供養したいという清浄心が生まれ、手に斎食を捧げて、法師の供養を心内に思い描き、この功徳が、涅槃の成就の助縁になるように願う(nibbānapaccayao hotu)。

その後に、供養の時の心境を思い出す時、善の心所は、絶える事無く、湧出するのである。

悪業もまた同じであって、悪を造(ナ)した時の状況を、不断に思い出すものである。

もし、かつて殺人(pānātipāta)、偸盗(adinnāta)、妄語(nusāvāda)等の悪業を造(ナ)した事があったならば、臨終の時に、これらの悪業の境が、一つ一つ顕現する。

この時の心境は、悪を造(ナ)していた、その時のと同じで、我々の心は、非常に容易に境に影響され、引き込まれてしまうものであるから、(+輪廻の先において)当該の悪業が感応する所の、もう一つ別の生命の果報体に、引き込まれてしまうのである。

凡夫の身である我々は、悪を造(ナ)す機会を減らす努力をしなければならない・・・少なくとも、重大な五逆業だけは決して、造(ナ)してはならない。

日常における微々とした貪・瞋・痴を、完全に断じ除くのは難しい為、これは徐々に訓練すればよい。

(4-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>