Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-21

三番目の誤解・盲点は:

我々が「定の作用は散乱の除去である」と連想する時、我々は、非常に強烈な動機を秘めつつ、心内のすべての考えを取り除いて、定を育成しようとする。

しかしながら、このように実践する事は、定の作用を育成しているのであって、定の近因(=直接原因)を育成しているのではない。

実際の正確なやり方は、定の近因を育成することを通して、定を獲得しなければならない。

定を得て後ならば、定はおのずと、散乱を除去する作用を擁しており、あなたの雑念は自然に、ますます少なくなっていくのである。

ある人が問う:

「我々は、心がどこかへ出かけて行って、何かの考え事をすることを知覚した時、心は、定の修習の目標へと、引き戻さなければならないのではないですか?」

そうである、しかし、そのようにすることは、我々の主要な重点では、ないのである。

我々の主要な重点は、定の近因にある。

我々は、心をして、益々修行自身を享受させねばならない。

毎回の修行の時に、ますます多くの楽しさがあるということを通して、定は、おのずと生じてくるのである。

定力が深まるとき、それ自体が散乱を除去する。

あなたは、本当に、すべての雑念を取り除く事を通して、定を生じせしめるのだと思っては、ならない。

あなたが定の修習を始めるにあたり、あなたに一分(いちぶん)の享受がある時、あなたは一分の楽しさを感じることができ、まさにこの一分の楽しさにおいて、一分の定力が生じるのである。

この一分の定力とは、「散乱を除去する」作用であり、それは、雑念の生起を避けるのにとって、有効である。

そして、(+雑念が減ることによって)次には二分目の楽しさが生じる。二分目の楽しさは二分目の定力を生じせしめる。

このようにして、一種の良性循環が生じる:

軽微な定力は、雑念を生じさせない作用があり、そのことによって、更に強い定力を生むことになる。

上記の事から、我々は、近因を育成しなければならず、(+そのようにすれば)100%の「散乱の無い状態」は、最終的に、自然に出現するのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-22につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-20

故に、定を修する時、我々の重点は「不散乱」「散乱の除去」「不動揺」に置くのではなくて、「楽しさ」に置くべきである。

「不散乱」「散乱の除去」「不動揺」は、すべて定の修習の結果であり、「楽しさ」こそが、定の原因、源なのである。

定を修する結果とは、定そのものであり、それは三つの方面から理解することができる:

それの特徴から理解する時、それは「不動揺」である;

それの作用から理解する時、それは「散乱の除去」であり;

顕現された状態から見ると、それは「不動揺」である。

しかし、定の修習の過程においては、我々は、定の原因、源(近因、+直接原因)を育成するべきであって、その結果を育成するのでは、ないのである。

二つ目の誤解・盲点は:

我々は「定の特徴とは不散乱である」と連想した時、我々は非常に、心に雑念が生じるのを恐れる様になる。

そして、我々は、修行の目標を凍結し、固定化し、以下のように思いなす:

「今、私には雑念がなく、ただ単一の目標のみがある。故に私は、不散乱というこの種の特徴を具備しており、私は将に、定力を育成しつつある」と。

しかし、あなたがそのように実践する時、あなたは定の特徴を育成しているのであって、定の近因を育成しているのではないのである。

実際に、あなたが実践しなければならないのは、あなたの心をして、益々、修行(+の楽しみ)を享受することである。

あなたの心が、益々修行を楽しむことが出来て初めて、あなたの心は自然に、不散乱の特徴を具備する定を、生じせしめることができる。

故に、あなたは、特徴を育成してはならず、近因を育成しなければならない。

楽しさがある時初めて、あなたの心は、不散乱の特徴を持つ定に入るのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-21につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

是誰庵のひとやすみ~戒より始めよ

昨日、インターネットを見ていますと、オウム教団・サリン事件の中川死刑囚が、手記を発表した、とありました。

出版の動機は、二度とこういう事件が起きないように、との事のようです。

仏教(仏法)を学ぶのは、なかなか大変です。

これは学ぶに値する教えか、洗脳されていないかどうか、よくよく心しなければなりません。

少し学んで実践してみて、また少し学び、実践する。少し臆病に、ゆっくり目の方が、よいかも知れません。

「俺は悟った」とか「悟ったからには、どんな事でもできる」などと豪語しない事です(ひっこみがつかなくなって、他人に利用されます)。

悟った(ように見える)人を見ると、つい、あこがれてしまいますが、相手も人間、こちらも人間。あまり美化しすぎないのが肝要です。

仏教では、<依法不依人>と言います。

仏法を噛み砕いて、説法をしてくれる比丘や先達、善知識は、ありがたいものですが、大事なのは法であって、人ではありません。

仏陀仏教の開祖ですが、仏陀以外に、教祖だとかなんだとか、持ち上げる必要はないのです(仏陀本人は、自分を持ち上げる人を批判しています。「私に会いに来る暇があったら、修行しなさい」と。)

かの教団の人々が、仏陀の教えた出家の227戒、いや、在家(または出家)の五戒だけでも守っていたなら・・・と、かえすがえす、残念に思います(第一条、不殺生。第二条、不偸盗。第三条、不妄語。第四条、不邪淫。第五条、不飲酒)。

南伝仏教では比丘は227戒を守りますが、その中に「他人の財産を、布施の名目で奪ってはならない」というのがあります。

オウムはこの部分でも、破戒しています。

タイや緬甸(ミャンマー)の南伝仏教(テラワーダ)では、在家仏教徒もよく戒と律を学び、出家比丘が戒律違反をすると、きっちり、厳しく批判します。

 出家も在家も、<櫂(戒)より始めよ>では、ないでしょうか?

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-19

上述した部分(No.1-18)における、最初の誤解、問題点は:

我々が、定の顕現状態を観た時、我々は、知らず知らずの内に、不動揺の顕現状態を模倣して、それを通して、定を獲得しようとすることである。

実際、我々はどのようにすれば、定を育成することができるのか?

我々は、定の近因(直接的な原因)を育成するべきであって、定の顕現状態を育成するのでは、ないことを知るべきである。

この種の誤解によって、多くの修行者は、静坐・瞑想する時に、自分の体が動くことを非常に恐れるのである。彼らはいつも、身体が動くと、己自身は「不動揺」の状態から離れてしまうのだ、と思い込んでいる。

しかしながら、第一級の修行者に言わせると、あなたは、あなたの身体があまりに緊張していると、自然と、身体を少し動かして、身体をリラックスさせ、心が楽しく、ゆったりできるようにするものなのである。

この時、己の身体を不動のまま強制、強要することはよくない。

というのも、定の近因(すなわち、楽しさ)を何ほどか育成することを通して、あなたは、近行定に近づくことができるからである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-20つづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

是誰庵のひとやすみ~戒名の起源

俳優の渡瀬恒彦さんが亡くなられ、兄の渡哲也さんの談話が、web載っていました。

渡瀬さんは家族葬で、戒名はなし、だそうです。

時代はここまで来たのかな、と思いました。

有名人でも、セレブでも、家族葬で、戒名はいらない・・・。

葬儀自体は、盛大にするか、こじんまりとするかは、人それぞれだと思いますが、戒名・・・亡くなった方に戒名を付ける、それも暗黙の習慣として、高額の布施を伴う、というのは如何かな、と思います。

戒名(または法名)は読んで字の如く、戒を守ると誓ったときに、戒師(住職、和尚さん)から頂く、一種のあだ名です。もちろん、生きている内に貰います。

ゴータマ仏陀の時代、インドにはすでに四姓差別がありました。司祭、貴族、商人・農民、奴隷の順に偉い、清らかだというのです。

仏陀はそれを否定し、四姓は平等、万人は平等である、と宣言しました。

所が、仏陀が開いた教団(精舎)に出家して住み着いた人々は、旧癖が抜けず、お互いに呼び合う名前から、世俗世界、娑婆にいたときの地位を勘案し、遠慮したり、威張ったりしていたそうです。

それをみた仏陀が「世俗の名前を捨てなさい。私が新しいあだ名をつけてあげよう」と言いました。これが戒名の起源です。

私も緬甸のパオ森林寺院で出家した尼僧なので、戒名を持っています(得度式に感謝して、日本のボールペンを少々お布施しましたが、それだけです。お布施のアリナシなど気にしている人はいない、と思いますよ)。

戒名(法名)は、生きている間に、戒師につけて頂くもので、死んでから、布施と交換に、残された家族によって、手に入れるものではありません。

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-18

定の特徴、作用、顕現、近因

問題三:定の特徴、作用、顕現、近因とは何か?

回答三:定の特徴は「不散乱(散乱しない事)」、作用は「散乱の除去」、顕現は「不動揺(動揺しない事)」、近因は「楽しい」。《清浄道論・第三品》

止禅を修行して、定力を育成しようとしている人にとって、上記の文言は、非常に奥深い陳述である。

(一)「不散乱」、

(二)「散乱の除去」、

(三)「不動揺」、(四)「楽しい」。

この四つの項目は、詳細に考察されなければならない。

その中で、「楽しい」というこの項目が主導する近因は、最も重要である。

上記の記述を理解する為に、非常に忙しい企業家を想像してみたい。

一日中忙しかったので、彼は非常に疲れている。しかし、一時間半後には、非常に重要な会議が彼を待っている。

今、彼はすべての仕事を手放し、呼吸念(または安般念という)の修行をする。

20分後に彼は入定した。

彼の秘書が門の前に来て、扉をノックしようとしたとき、秘書は彼が坐して動かないのを見た。

これが定の顕現「不動揺」である;

この時、彼の心には「不散乱」の特徴が顕現しており、彼の証得した定には「散乱を除去する」作用がある。

しかし、これらの一切を生じせしめる近因(直接原因)は、「楽しい」である。

この楽しさの来源・ソースは、善くて巧みな方法によって、呼吸を体験することによって生じたものである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-19につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-17

たとえば、《清浄道論・第四章》に以下のような重要な解説が書かれている:

「地遍(または土遍)」を修行する時、我々は、心に歓喜を生起させることのできる、どのような主題・テーマまたは概念をも借用することができる。

「土」というこの物質は、我々に以下のような連想をさせる、すなわち:地面、大地(天を戴き、地を戴く)、友愛の大地(大地の如く耐え忍ぶ)、富を齎す者(皇天后土)、無比なる富を隠し持つもの(地以厚徳載物)、または地と相応して、あなたを啓発することのできる主題または概念。

このことから類推して、その他の業処を修習する時も、かくの如くであるようにする。

◆結論:

(一)定を修習する時、あなたの心は将に、平等に、正確に単一の目標(所縁)に向かっている。あなたが活動的で活発な心を維持し、毎日、修行の目標に対して、調和のとれた交流を行うならば、それがここで言う所の「平等に専注する」ということである。

(二)正確に専注する:あなたの心が単一の主題、テーマを巡って正確な軌道に沿って前進するならば、それはここで言う所の「正確な専注」である。

(三)単一の目標(所縁):単一の目標を、単一の<もの>であると思うのは間違いであり、更に間違っているのは、物質的な目標であると考える事である。

それは一個の主題、テーマとして見做す必要があり、心境の変化に伴って、種々の異なる風貌・様相が出現するものでなのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-18につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>