Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~正念の誤解

 先日、<Vipassanāの誤解>について書きましたので、

本日は<正念の誤解>。

正念は、古の中国人が、古代インドから中国(西域、敦煌など)に入って来たパーリ語またはサンスクリットの仏教書の中に書かれていた<サンマ・サティ>という言葉を、漢訳する際に選んだ漢語です。

大乗の国中国で、サマタ・vipassanā の修行をする人はおりませんので(サマタはともかく、vipassanā は忘れ去られてしまった)、「正念とは何か?」という命題は、あまり追求されてきませんでした。

その為、正念は「妄想せずに、正しくものを考える、念をつなぐ」というくらいの意味に捉えられていたようです(禅宗なら、妄想せず、心を<今・ここ>におく、でしょうか?)。

所が、ベトナム戦争の頃、アメリカ人、西欧の人々が、タイに行く事が多くなりました。

ベトナムを攻撃するための、アメリカの軍事基地が、タイ国内に造られたからです(タイは中立国でしたが、アメリカに軍用地を貸した)。

そこで、アメリカの兵士の中に、休暇を貰うと、タイの僧院に行って修行をする、ちょっと変わり種の人々がいました。

この人たちが、タイの僧侶方が言う<サンマ・サティ>を、<マインドフルネス>という英語に置き換えました。

このマインドフルネスという訳語が、日本に入って来ると、古めかしい漢語の<正念>よりも斬新な感じがする為もあって、日本でも、瞬く間に流行しました。

そして、

サンマ・サティ

= マインドフルネス

= マインドフルネス瞑想

= 気づきの瞑想

= 常に(己自身の喜怒哀楽に)気づいている事

= Vipassanā 瞑想 

という図式が出来上がりました。

しかし実は、中国語の<念>の本当の意味は<忘れない事>で、では何を忘れないのか?と言えば、<業処>を忘れない、です。

業処は、あなたの瞑想の先生が決めてくれるもので(自分で決めてもOKですが)、日本ではほとんどの方が、安般念(息の観察)になると思います。

一週間以上の、長期のリトリートで、業処をひと時も逃さずに捉え続けると、自分の鼻の前方にnimitta が生じる事に、気が付きます。

「私は今、怒った」「私は今、悲しい」などというラベリングや気づき、自己確認は、nimittaを殺します。

ただ只管、<業処>を正しく捉え続ける時、すなわち、業処を忘れないで、一瞬たりとも途切れずに、業処を観じ続ける時、そうしてようやく nimitta は生じます。

正念(サンマ・サティ)は、<気づいている事>ではなくて、<業処をひと時も忘れない事>です。

皆様も座禅・瞑想する時に「業処を忘れない」とつぶやいてから、坐ってみて下さい。個人によって差はあるかも知れませんが、試す価値あり、です。

(尚、行住坐臥における己の姿勢、行為・行動、感受を明確に知っている、気づいている事は、<正知>または<威儀路明覚>といいます)

   <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

般若の独り言~Vipassanā瞑想の誤解

私が<サマタ・vipassanā>という言葉を初めて聞いたのは、30歳を過ぎた頃に訪ねた、タイの森林僧院での事でした。

私「このお寺では、何を教えているのですか?」

比丘尊者「サマタ・vipassanāです」

私はこれを聞いて、大変に嬉しかったのを覚えています。

というのも、それ以前に『天台摩訶止観』という本を読んでいたのですが、何をどうしたら、何がどうなるのか、余りよく、否、まったくもって、理解できなかったからです(当該書籍を読んだ当時、まだ若くて、前提になる知識がなかったせいも、あるかも知れません)。

そこで「サマタ・vipassanā」を教えて頂きたくて、毎年時間を見つけて、タイの森林僧院に通いましたが、15年の間に教えて頂いたのは、<安般念>のみ。

何年経っても<息の出入り>を観るだけで、「それで、この先はどうなるの?」という疑問と不安で一杯になった頃、パオ・セヤドーの『智慧之光』(中国語版)一書に出会い、ゴータマ仏陀の瞑想は、息を観るだけでなく、その先に、nimittaを観じ、vipassanā に進む修行である事に気が付きました(それで、即刻、緬甸のモーラミャインにある、パオ本山に修行に行きました)。

では、なぜこれほどまでに、サマタ瞑想と

vipassanā 瞑想が混同され、誤解されて、全世界に拡散されてしまったのか。

1)ゴータマ仏陀は「サマタ瞑想(初禅~四禅、非想非非想処までの禅定の瞑想)は、vipassanā(=観)には(直接には)役に立たない」と述べた。

2)安止定(初禅~四禅、同上。すなわちサマタ)に入らないで、安止定の前段階の近行定で、四界分別観を実践する純観行者は、色聚の密集を看破して、阿羅漢になる事ができる。

 ゴータマ仏陀在世の当時、「サマタを成就してから vipassanā を始めるのでは、vipassanā が成就する前に死んでしまう」と訴えた老比丘、老比丘尼たちに、ゴータマ仏陀は、安止定の前段階である近行定のレベルで、色聚の無常・苦・無我を観察する<純観行者>の道を教えました。

これは一種のバイパスであって、この種の行者は、名法を観ずる力が弱い、という弱点があります。

3)上記のいくつかの教えの要素が混同されて、「Vipassanā 瞑想にとって、サマタ瞑想は有害である。サマタをしないで、直接 vipassanāに取り組もう」という国民的運動が、英国から独立した直後の緬甸に起き、これが隣国タイに伝わり、タイから全世界に伝わっていきました(タイに修行に来ていた欧米の人たちが、母国に戻って伝えた。その為、欧米では、マインドフルネス瞑想、vipassanā 瞑想という言葉が、一人歩きしてしまった)。

4)Vipassanā 瞑想の王道は、サマタ瞑想を成就して後、サマタの定に安住しないで(サマタは、瞑想の対象と合一する為、非常に安楽な故、サマタ修行者は一旦禅定に入ると、定から出たくないと思う)、サマタから出て来て、vipassanā(色法と名法の無常・苦・無我を直接知覚する事、すなわち、観禅)の修習をする事にあります。

 正しくは、

5)ゴータマ仏陀の教えの真髄は、

「名と色の究極法(無常・苦・無我)を観察するのが vipassanā 瞑想である。その為には、先にサマタ瞑想を完成させなければならないが、サマタを成就させた暁には、サマタに沈潜するのではなくて、サマタから出て来て、vipassanā(=観禅)をせよ」

6)「サマタの成就は難しいので、サマタを飛ばして、直接 vipassanā(観禅)を始めたい」と思う修行者は、近行定から心を集中させて、四界分別観の実践を通して、nimittaを生じせしめ、身体が氷の様に透明になった時に、色聚・色法の無常・苦・無我を観察する。

これはゴータマ仏陀が許した修行方法で、それを実践する者は、純観行者と言う。

であって、

<サマタは有害だから、サマタ瞑想をやってはいけない。安般念と腹部の起伏の観察とラベリングを組み合わせたものが、ゴータマ仏陀の教えた vipassanā である>

というのは、完全な誤解である事が分かります。

この誤解を解くために、パオ・セヤドーは、経典と《清浄道論》を携えて、何年も森の中で、一人瞑想されたそうです。

その結晶が『智慧之光』。

今では、タイにもパオ・メソッドは導入されています。

Vipassanā 瞑想に関する、世界レベルの誤解が、一日も

早く解けますように。

    <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

般若の独り言~止観(サマタ/vipassanā)瞑想とは何か

昨日、WEBニュースを見ていましたら、タイの洞窟に閉じ込められたサッカー少年たちの記事が出ていました(今年、6月末から7月にかけての事件)。

正確に言いますと、少年たちにサッカーを指導していたタイ人コーチの、経歴等に関する、精神科の女性医師による称賛のコメントでした。

彼女は、このコーチが瞑想によって、真っ暗な洞窟の中においても、落ち着きを維持して、己自身と少年たちを守ったのだ、との意見です。

この意見に異議はないのですが・・・。

彼女が、コーチが行っていた瞑想を<ヴィパッサナー(vipassanā)瞑想>だと言っている事が気になりました。

いつから、人々は、サマタ瞑想と Vipassanā 瞑想を、

混同するようになったのでしょうか?

本当は、こんな重箱の隅をつつくような事を言いたくはないのですが、しかし、止と観の瞑想(サマタ瞑想& vipassanā瞑想)を混同していると、一体自分は、ゴータマ仏陀の教えた瞑想の、どの部分を実践しているのか、分からないままにやみくもに取り組んでいる事になって、これは余りよろしくないのです。

前述のWEBでのコメントでは、「コーチは<息の出入りを見る瞑想>をしていた」と書かれていました。

そうすると、コーチは、安般念(出入息念)を実践していた事になります。

これはサマタ瞑想です。それなのに、この精神科医師は、これを<マインドフルネス瞑想>と呼んだり、<vipassanā瞑想>と呼んだりしています。

マインドフルネス瞑想(気づきの瞑想)は、その深さと瞑想の対象(所縁)によって、<正念の瞑想>または、<正知の瞑想>と定義する事ができるので、安般念を<マインドフルネス瞑想>と呼んでもOKかと思いますが、安般念を<vipassanā瞑想>と呼ぶことはできません。

Vipassanā瞑想とは、素粒子レベル(またはクォークレベル)の無常・苦・無我を観察する事に特化した、刹那定によるミクロの観察の事を言います。

その時、修行者が見ている対象は、色法(素粒子)と名法(心・心所)です。

細かく言えば、それらの、もはや分解する事の出来ない

<究極法>の無常・苦・無我を観ているのを、vipassanā

瞑想と言います(注1)

この種の<究極法>を観察する修習は、<16観智>と言いますが、これが vipassanā瞑想です。

<息の出入りを見る修習>すなわち安般念、禅相(nimitta)が生じて、その光で、体内を観察する修行(32身分)など、遍(カシナ)を含む、40種類の業処を所縁とする瞑想は、どんなに高度(四禅や非想非非想処等)であっても、サマタ瞑想です。

修行者にnimittaが生じて、色聚と名聚の観察が出来て、かつ、それらの密集を看破できるようになった時はじめて、それを vipassanā瞑想と呼びます。

瞑想によって、日常生活において心の落ち着きを得ることができれば、瞑想に関する呼び名、定義などどうでもよいではないかと、私も思いたい所なのですが、ゴータマ仏陀の教えた瞑想の最終目標、究極の目標は出世間、すなわち、ミクロ世界の無常・苦・無我を、智慧でもって看破することなのだという内実を押さえておかないと、己自身の瞑想修行において《今現在、自分は一体どこにいるのか》という地図を描けない、または描き間違えてしまうと思います。

老婆のようにくどくど、書きました。

老婆心まで。

注1:いまだ分解できる色(身体、物質)と名(心・心所)の<塊>を観ている場合は、概念を伴うので、サマタ瞑想と言います。縁起の修習(己自身の過去世、未来世の観察)と、名色分別智の修習は、サマタ瞑想と vipassanā瞑想の中間地点です(便宜的にこの二者を vipassanā瞑想の範疇に入れる場合があります)。これより上の<16観智>が 真正の vipassanā瞑想です。

「私は吐く息を観じている。私は吸う息を観じている」という安般念の対象は<息>ですから、それは<概念を観じている>ので、サマタ瞑想になります。ラベリングは概念に名称(恣意的に言語化された上位概念)を張り付けている行為であり、<如実知見>とは一番遠い関係になります。

詳しくは拙訳『智慧の光』(パオ・セヤドー著)参照の事。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

般若の独り言~言霊

先日、水中運動での、雑談の時。

ある女性が言いました:

「日本って、男尊女卑よね。私は色々悔しい思いをしたから、今度生まれて来る時は、手足がなくてもいいから、

男性がいい」

ちなみに、この方は仏教徒ではなく、輪廻を認めておりませんが、まぁ、女性差別について、それくらい悔しい思いをした、という事だと思います。

私「(輪廻する、しないの水掛け論は横に置くとして)手足がなくてもいいから・・・という請願はよくないですよ。言葉には力があります。貴女が口にした言葉は、縁が熟すと、実現するのです。言霊っていうでしょ?」

「『生まれ変わるならハンサムで、聡明で、女性に寄り添える男性になりたい』と誓うといいですよ」(エネルギー不滅の法則で、死んでも輪廻する事、有情は、業に従って、姿・形を変えて生きて行かねばならないのだけれど、それは今は言わない)。

タイで、浮気をした夫の愛人を恨んで

「あいつなんか交通事故に遭って、手足がもげてしまえばいいのに!」

と口癖のように言っていた女性が、自分が事故に遭って、手足を失った人がいます。

私は神通がないので、この出来事の因果関係を明確に知る事は出来ませんが、<人を呪わば穴二つ>と言いますから、やはり口業は正しく、正語で行きたいものです。

深層心理学でいえば、「手足がもげればいいのに」と口癖にように言っていると、それが潜在意識に刷り込まれて、あるシュチエーションにおいて(これが、因と縁の熟した時)、自分がそういう場面を引き受けざるを得なくなるか、または引き起してしまう羽目になる、のだと思います。)

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

般若の独り言~仏教・哲学を生きる

先日、女優の樹木希林さんが亡くなられました。75歳でした。

私は、基本的に、自分が会った事のない俳優や運動選手などの有名人に対して、TVや映画でその姿を見ただけでファンになったり、入れ込んだりしないので(報道関連の通訳をしていた時に、マスコミが虚像を乱造するのを見た為)樹木希林さんにも、特に思い入れがあるわけではありませんが、彼女の死が大きくニュースになるという事は、やはり稀有な人であったのでしょう。

私は、《生きにくい現代の若者へ》と題した、水墨で描いた彼女自筆の自画像(こんな婆さんになっても生きていけ!)を(彼女の死後)見て、「この人は仏教の心を、仏教の哲学を生きた人だな」と思いました。

ご本人は仏教徒だとは宣言していませんし、なんでもかんでも<仏教>に引き付ける必要はないのですが・・・彼女は「自殺するのはよくない。自殺すると、来世はつらいものになる」と言っています。生死について深く考えておられたのでしょう。

これほどの大女優でも、「靴は登山用のスニーカー、雨靴と黒、茶、赤の革靴を一足ずつ」と言っていました。

尼僧である私の方が多い位で(笑)。

「美人さんは、顔に色々塗るけれど、私はドンドン削って行って、今は何も塗らないのです」と言っていましたが、これは私も同じです(笑)。

仏教は、理論も大事ですが、実践しなければ単なる戯言、絵に描いた餅ですね。

人生そのものが仏教であり哲学である、そんな生き方。

    <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

 

 

般若の独り言~老いの身支度

<『禅修指南』の見出し紹介>が、本日完了しました。

アビダンマの理論、修行方法、実践に興味のある方、

ゆっくりご閲読下さい。

当該著書の見出しの紹介と、簡単な<概要抄>では、

仏法に関する理解があまり深まらないかと思いますが、

箇条書きの部分を索引のように使って頂ければ幸甚です。

折しも、台湾からパオ・リトリートのお知らせが届きました。年明け、一か月の閉関(bi guan 閉門蟄居)、頑張りますか。

・・・老いの身支度、暫く修行に専念します。

もし、法施として翻訳を再開するとしたら、真っ先に

『禅修指南』を翻訳します。

その時は、よろしくお願い致します。
(人生の悲喜こもごも、時々<独り言>呟きます。偶に覗いてみて下さい。)

★私のライフワークでありました仏教書の翻訳は、2018年8月10日をもって終了致しました。「智慧の光」「如実知見」「菩提資糧」「パオ・セヤドー問答集」(パオ・セヤドー

シリーズ)「37道品ハンドブック」「Vipassanaハンドブック」(Ledī sayādaw 

シリーズ)「掌中の葉」「24縁発趣論」「基礎発趣論」「メーチ・ケーウの物語」

「阿羅漢向・阿羅漢果」などなど(約20冊)を講読ご希望の方は、ブログの中から見つけてご閲覧下さい。一部は<菩提樹文庫>にも掲載されています。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

般若の独り言~仏教指導者の性的虐待

WEBでの、夕方のニュースで

ダライ・ラマ、仏教指導者の性的虐待認める』

『90年から知っていた』

とあります(ダライ・ラマ、オランダ訪問で)。

いよいよ仏教界にも、飛び火しましたか。

「日本の僧侶はほぼ全員結婚するので、このような問題は発生しない」と言いたい所ですが、<結婚する出家僧侶>自体が、仏教倫理における存在矛盾ですから、これは横においておくとして・・・。

僧侶の性的虐待問題・・・東南アジアのテーラワーダの比丘とサヤレー、中国・台湾の大乗の比丘・比丘尼チベット仏教の出家僧侶、尼僧方は、皆結婚しないで、僧院内部に住居を貰って暮らすか、精舎で暮らす。

どういう時に、こういう問題が起きるのでしょうか?

テーラワーダの比丘の住まい(クッティ)は、女性は、戒律上、また遠慮する気持ちもあって、めったに近づかないものなのですが(一人住まいの比丘のクッティを訪ねる時は必ず、複数人で行きます)・・・それでも事件は起きるのですね。

 

随分前ですが、タイで、女性信者が、比丘の子を出産した話は、日本の雑誌にも載りましたし、有名です。当該の比丘は、サンガ永久追放になり、アメリカに移住したそうです。

台湾でも、比丘の子供を出産した比丘尼さんがいます。台湾のサンガと国の規定により、この子は、戸籍がもらえないそうです。

上記の事件が、性的虐待かどうか、判定は難しいと思いますが、厳重な戒律違反です。

今年は《隠された事実が露わになる年》と言われています。上記ニュースの続報を、待っている所です。

    <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>