Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-50(225/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

13.1.1 縁摂受智

この様に修行する時、あなたは容易に、過去世において累積した業力が、あなたのこの一世の結生刹那の時の色蘊を生じた事を了知することができる。

この種の因彼所縁関係はどの様にして観察するのか?

この段階において、あなたはすでに心所依処に依存して生起する所の心が、多くの心生色聚を生じる事を観察したことがあるため、心と心生色法の間の因果関係も観察することができる。

心が心生色法を生じる状況と同じく、業力は、業生色法を生じることができる。

業力が業生色法を見たと確定できたならば、更に一歩進んで以下の様な観照をする:

1、[前世の]無明が生起するが故に、結生刹那の色法が生起する;

無明は因、結生刹那の色法は果。

2、[前世の]愛が生起するが故に、結生刹那の色法が生起する;

愛が因、結生刹那の色法は果。

3、[前世の]取が生起するが故に、結生刹那の色法が生起する;

取が因、結生刹那の色法は果。

4、[前世の]行が生起するが故に、結生刹那の色法が生起する;

行が因、結生刹那の色法は果。

5、[前世の]業が生起するが故に、結生刹那の色法が生起する;

業が因、結生刹那の色法は果。

次に、前世の業力と今世の結生時の名法の間の因果も観照しなければならない。その後、前世の業力と今世のこの一世の中の、果報五蘊の間のすべての因果関係を観照しなければならない。

特に、六門の心路過程に注意を払う事。

前世の無明、愛、取、行及び業が生起するが故に、今世の色蘊などが生起する;

前世の無明、愛、取、行及び業は因、今世の色蘊などは果、これが行法の因縁生の観照である。この様に観照する智慧は、縁摂受智(paccaya-pariggaha-ñāṇa)と言う。

13.1.2 縁起を観察するもう一つ別の方法

縁起第一法の方式は:

1、無明の縁によりて行あり;

2、行の縁によりて識あり;

3、識の縁によりて名色あり;

4、名色の縁によりて六処あり;

5、六処の縁によりて触あり;

6、触の縁によりて受あり;

7、受の縁によりて愛あり;

8、愛の縁によりて取あり;

9、取の縁によりて有あり;

10、有の縁によりて生あり;

11、生の縁によりて、老、死、愁、悲、苦、憂、悩あり。

一切の苦蘊は、格の如くに生起する。

比丘たちよ。

これを縁起と言う。

上に述べたものは縁起第一法である。

この第一法に基づいて、あなたは以下の如くに因果を識別する事ができる:

無明が生起するが故に、行が生起する;無明は因、行は果;などなど。

この第一法において、無明と行は現在果報蘊の過去因である;果報蘊は識、名色、六処、触と受である。

愛、取と業は、未来果の現在因である;未来果は生有、生と老死亡である。

もし、無明があるならば、愛と取もまた存在する。

同様に、もし愛と取があるならば、無明もまた存在する。

というのも、それらは常に相い炊飯して生起するが故に。

同様に行があるならば、業力もまた存在する;

もし業有があるならば、業力も、行もまた存在する。

《発趣論》(Patthana)の業縁(kamma-paccaya)の章によると、行の業力は業または業有と呼ばれる。

 こうした事から、第一法の中には、五個の過去因と五個の現在果があり、また五個の現在因と五個の未来果がある事になる。

五個の過去因は無明、愛、取、行及び業である。

五個の現在果は、識、名色、六処、触と受である。

五個の現在因は、無明、愛、取、行及び業または業有である。

五個の未来果は、識、名色、六処、触と受であり、言い換えれば、生、老と死である。

何故であるか?

この五果は、果報五取蘊であるが故に。

五取蘊の生時を生と言い、住時を老と言い、壊滅時を死という。

もし、あなたがこの解説を理解することができるならば、我々は、あなたは、第一法の含意と第五法の含意は同じである事を容易に理解することができる様に願っている。

無明は、独自に生起することはできず、心路過程の中の相応する名法と同時に生起する。

行もまた同様である。

故に、無明を識別する時、ただ無明をのみ識別するのではなく、過去世の意門心路過程の中の、それと共に生起する所の相応する名法もまた、識別しなければならない。

同様に、行を識別する時、ただ行を識別するのではなく、過去世の意門尊路過程の中の、それと共に生起する所の相応する名法もまた識別しなければならない。

我々は言う、意門心路過程は、五門心路過程の中の行が結生を生じることが出来ない場合の果報五蘊である、と。

經の教法によると、識、名色、六処、触と受は、果報蘊に過ぎない。

もし、詳細にそれらを理解したいのであるならば、あなたは一人の良師を得て、学習しなければならない。

ここでは、我々は簡略な資料を提供するのみである。

(6-51につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay> 

 

 

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-49(223/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

13 三種類の観智

「彼は身の生起の現象の観照に安住し、身の壊滅の現象の観照に安住し、または身の生起と壊滅の現象の観照に安住する」

 この經文においては、三種類の観智が含まれている、すなわち:

1、縁摂受智(paccaya-pariggahañāṇa):因果関係を観照する智慧

2、思惟智(sammasanañāṇa):行法の無常・苦・無我の三相を観照する智慧

3、生滅随観智(udayabbayañāṇa):行法の生滅を無常・苦・無我として観照する智慧

行法の生滅には二種類ある、すなわち:

(一)因縁生・滅(paccayatoupadayabbaya);

(你)刹那生・滅(khaṇato udayabhaya)。

因縁生・滅はまた、二つの部分に分けることができる、すなわち、因縁の生と因縁の滅である。

因縁が生起するが故に、五取蘊が生起する、これは因縁の生である。

因縁が無余に滅尽するが故に、五蘊が無余に滅尽する、これは因縁の滅である。

五蘊と名色は同義語である。28種類の色法は、色蘊であり、色蘊である。

名法の中の受は受蘊、想は想蘊、50種類の心所は、行蘊であり、六種類の識は識蘊である。

色蘊は色法であって、受蘊、想蘊、行蘊と識蘊は名法であるが故に、五蘊とは名色である。

五蘊または名色の因縁生は、どの様にして、観照するのか?

 

これは《大念処経》の中で、仏陀が教える観禅の第二段階である。

たは順序に従って、漸進するべきであって、飛び級することはできない。

再度、先に第一段階を修習する必要がある事に注意を払って頂きたい。

すなわち

(一)内外の色法を観照する。

(二)内外の名法を観照する。

(三)内外の名色法を観照する。

(四)内外の名色法には、人、我、衆生などはないと識別する。

この様に観照した後初めて、第二段階の修習に進むことができる。

13.1 縁起の法則

名色法の因縁生をどの様にして観照するのか?

内外の名色法を観照した後、あなたの今に最も近い所の、過去の名色法を観照しなければならない、たとえば、座禅・瞑想を始める前の名色法である。

座禅・瞑想の前、あなたは、蝋燭または水でもって、仏陀に供養することができる。その後来世は比丘になりたいと発願する。

座禅・瞑想を始める時、仏陀への供養と、比丘になりたいと発願した時の心路過程を識別しなければならない。

これらは最も近い名法である。

それらは、業輪転(kammavaṭṭa)と煩悩輪転(kilesavaṭṭa)である。

それらはその識別方法色に依存して生起する;

当該の依処色は色法である。

外在する名色法を観照するが如くに、過去の名色法を観照するべきである。

今からもっとも近い所の過去の名色法を観照することができたならば、その後、もう少し遠い所の過去を観照する。

この様に、緊密に、徐々に、過去の名色法を観照するのである。

今世に生まれる時の、一番最初の刹那ーー結生心まで(+もらさず)観照し続ける。

結生心の名色法を観照することができたならば、再度、過去に向かって観照すれば、前の一世の臨終の時野名色法を見ることができる。

その時、三種類の目標の中の一つが、あなたの心の中に出現せる。

この三種類の目標とは:

(一)業:業を造(ナ)す行為

(二)業相:当該の行為の相

(三)趣相:次の一世の生まれ変わる所の相。

私は例を挙げて説明する:

ある一人の禅修行者が、前世の臨終の時の名色法を観照した所、彼は、一人の人間が、蝋燭でもって仏像に供養するという、この様な業相を見た。

この時、彼は、その人の影像に対して、系統的に四界分別観を修習しなければならない。色聚が見えた後、色聚の中の究極法が見えるまで、その色聚を分析しなければならない。

その後、心臓の中の54種類の色法、特に心所依処色に注意を払わねばならない。

この様にすれば、非常に容易に、有分心を見ることができる。

有分心の中においては、異なる目標が出現する。

その時、彼は、それらの有分心を前に後に、進み戻りつしながら、観照しなければならない。

何故であるか?

というのも、心路過程は、有分心の間に出現するが故に。

この様にして、何度も、繰り返して、進み戻りつして、観照すれば、それらの心路過程を観察することができる。

その結果、彼は、仏像に蝋燭を供養する前に、来世は比丘になって修行したいと発願した、前世のその人を見ることができる。

蝋燭を供養する時の心は意門心路過程として生起するが、一つひとつの意門心路過程の中には、一個の意門転向心と七個の速行心がある。

意門転向心には、12個の名法がある、すなわち、識、触、受、想、思、一境性、命根、作意、尋、伺、勝解と精進である。

一つひとつの速行心には、34個の名法があるが、すなわち、

識、触、受、想、思、一境性、命根、作意、尋、伺、勝解、精進、喜、欲、信、念、慙、愧、無貪、無瞋、中捨性、身軽安、心軽安、身軽快性、心軽快性、身柔軟性、心柔軟性、身適業性、心適業性、身練達性、心練達性、身正直性、心正直性と慧根である。

これらは善法であり、縁によりて業相を目標として取って生起するものである。ここでは、業相は、「仏像に蝋燭を供養する」を指す。

速行心の34個の名法は行という。

これらの名法の中において、思心所が最も重要である、思とは業である。これらの名法が生起した後、即刻壊滅する、というのも、それらは無常であるが故に。

しかしながら、それらは、彼の名色相続流の中において、業力を残留させる。

《発趣論》(Patthana)の業縁(kammapaccya)の章において、業力をば、業と呼んでいる。

その後、彼は、来世比丘になりたいと発願した時の心路過程を、再度観照する。

それもまた、一種の意門心路過程である。

一つひとつの意門心路過程の中には、一個の意門転向心と七個の速行心がある。意門転向心には、前に述べた様に、12個の名法がある。

一つひとつの速行心には20個の名法があるが、それはすなわち、

識、触、受、想、思、一境性、命根、作意、尋、伺、勝解、精進、喜、欲、痴、無慙、無愧、掉挙、貪と邪見がある。

速行心の20個の名法の中において、無明、愛、取の三項の名法が、最も顕著である。

無明とは何か?

仏陀の教えに従えば、我々の身・心は、究極色法と名法に過ぎない。もし、我々が、それらを純粋にただの名色法であると見做すならば、それは正確である。

これは観智であり、正見である。

しかしながら、もし、我々がそれらを男性、女性、比丘または比丘尼と見做すならば、それは間違いである。

これを無明または愚痴(=愚かで無知な事)と言う。

愚痴であるが故に、彼は修行する比丘になりたいと発願したのであり、これは愛である。

彼は、修行する比丘の生命に執着したが、これは取である。

無明、愛、取という、この三種類を煩悩輪転(kilesavaṭṭa)と言い、それらは生死輪廻を引き起すことができる。

こうした事から、五種類の主因がある(+事がわかる)すなわち、無明、愛、取、行、業である。

その後、彼は今世に生まれ変わる時の結生心の五蘊観照しなければならない。結生心には、30種類の色法があり、其々三種類の色聚の中に分かれて存在するが、それはすなわち、身十法聚、性根十法聚と心色十法聚である。それらはそれぞれ、10種類の色法を含んでいるのである。

この30種類の色法を観照した後、再度、無明、愛、取、行、業という、この五種類の過去因を観照するが、特に主に業力を観照する事に重きを置く事。

前世の臨終の時に熟した業力と今世の結生の時野30種類の業生色法を繰り返し観照して、これらの色法が前世の、あの業力によって生じたものであるかどうかを点検する。

以上は、ある一人の禅修行者の例である。

(6-50につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

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パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-48(219/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

12.4.34 無痴(amoha)または慧根(paññindriya)

慧根(paññindriya):パーリ語 paññā は、慧か、または諸々の法(究極法)を如実に知見することを意味する。

ここにおいてそれを「根」と呼ぶのは、諸々の法を如実に知見するに当たって、それは主要な地位を占めるからである。

《阿毘達摩蔵》の中において、慧(paññā)、智(ñāṇa)、無痴(amoha)の三者は同義語である。

観智もた、慧根というこの心所の中に含まれる。

無痴または慧根の特徴は、究極法の自性相を徹底的に知見することか、または正確に透視することであるが、それはちょうど弓矢の射手が、矢で以て、目標を貫くが如くである;

作用は、灯火の如くに、目標を照らす事;

現起(現象)は明確な視察、明晰な観照

まさに仏陀の言う様に:「定のある者は、諸々の法を如実に知見することができる。」

この近因は、特に、観智の原因でもある。

前に述べた様に、この六対の心所は、一切美心と俱生する。

一つひとつの善心、布施、持戒、止禅と観禅の修行において、それらは必要とされる。

それらは善心及び俱生する所の心所と協調して、善法を有効的に実行する。

それらは欲欲、瞋恨、昏沈と睡眠、掉挙と後悔、疑という、この五蓋を対治する。

この六対の心所が存在する時、諸々の蓋は生起することができず、心と心所は、みな、健全に、かつ、より善く、それらの作用を執行することができる。

正見は、この六対が代表する所の一切の善的素質に導く、縁生法である。

阿羅漢道心と果心の中において、それらは円満に到達する。

あなたは、同様の方法を用いて、第二禅、第三禅、第四禅の心路過程の中の名法を識別しなければならない。

ジャーナ法を識別しなければならないだけでなく、あなたは、相、作用、現起(現象)と近因に基づいて、善速行と不善速行の存在する六門心路過程を識別しなければならない。

しかし、我々はこの一回の法話だけで、これら一切を討論しつくすことはできない。

あなたは一人の善くて巧みな導師の下で、学習と修行を実践しなければならない。

次に、私は、《大念処經》について解説する。

12. 5 二種類の身

私はすでに、三種類の身:呼吸身、所生身と名身について解説した。

この三種類の身の中において、呼吸身と所生身は合わせて色身と呼ぶ。このことから、身には二種類あると言える、すなわち、色身と名身である。

それらを、なぜ、身と呼ぶのか?

というのも、それらは、単独では生起することができず、群れを成して生起する必要があるが故に、それらは身と呼ばれる。

この「身」(kāya)という時、それは究極色法の身及び究極名法の身を指すことに注意する事。

12.5.1 内身と外身

あなたはこれらの身を身として観照しなければならない。

しかしながら、内在する自己の身を身として観照するだけでは、涅槃を証悟するには足りず、なお、外にある他人の身を身として観照しなければならない。

何故であるか?

あなたは内在する己自身の身に渇愛し、驕慢になり、邪見を持つだけでなく、外部に存在する他人の身に対しても渇愛し、驕慢になり、邪見を持つからである。

外にある対象に対する渇愛、驕慢、邪見等の煩悩を断じ除く為に、あなたは外部にある身を身として観照しなければならない。

たとえば、あなたは、己自身の子供、夫または妻の成功・成就に対して、一つひとつ驕慢になるかも知れない。

この種の驕慢を断じ除く為に、あなたはそれらを無常として観照しなければならない。

外部に存在する身への渇愛を断じ除く為に、あなたはそれを苦として観照しなければならない。

「私の息子」がいる、「私の夫」がいる、「私の妻」がいるという邪見を断じ除く為に、あなたは、外部に存在する身を、無我として観照しなければならない。

なぜ、外部にある身は、無常・苦・無我であると言うのか?

若し、観智でもって、それらを観照するならば、あなたはただ、究極名色法をのみ、見る事になるであろう。

それらは、生起するやいなや、即刻壊滅するが故に、無常である。

それらは、常に、生・滅の圧迫を受けているが故に、苦である。

それらの中において、あなたをして「私の息子」「私の夫」「私の妻」と言い得る永遠不変の自己がないが故に、それらは無我である。

この様に観照する時、あなたは驕慢、渇愛と邪見という、この三種類の執着を断じ除く事ができる。

故に、仏陀は教えて言う:

「この様に、あなたは内在する身を身として観照する事に安住し、外部に存在する身を身として観照する事に安住する」

しかし、仏陀は続けて言及する:

「または、内在し、外在する所の身を身として観照する事に安住する」

なぜ、仏陀は、もう一言、加えたのか?

その意味は:

初心者にとって、一回の座禅・瞑想だけで、内部にある身を身として観照することだけでは、足りないのである。

何日も、何か月も、多くの時間をかけて観照しなければならない。

彼は、外部にある身を身として観照しなければならないが、これもまた何日もの時間をかけて、観照しなければならない。

この様に観照した後、彼は、一回の座禅・瞑想の内に、内部の身と外部の身とを、交代に観照しなければならない。

一、二回観照するだけでは足りず、繰り返し重複して、多数回観照しなければならない。

唯一、この様に観照して初めて、驕慢、渇愛と邪見などの煩悩を、降伏することができるのである。

12.5.2 四つの段階

観智の順序に従えば、これは、名色分別智(nāmarūpaparicchedañāṇa)に過ぎないのである。

この智慧は四つの段階に分類することができる:

1、色摂受智(rūpapariggahañāṇa):色法を観照する智慧

2、非色摂受智(arūpapariggahañāṇa):名法を観照する智慧

3、色非色摂受智(rūpārūpaparigghañāṇa):色法と名法を同時に観照する智慧

4、名色差別智または名色分別智

(nāmarūpapavavaṭṭhānañāṇa or nāmarūpaparicchedañāṇa):

名色法を分別して識別する智慧

すなわち、名色法の中において、人、我、衆生などは存在しておらず、純粋に名色法があるのみである(+ことを知る智慧)。 

上の事から、この段階において、あなたは下の述べる四つの順序に従って修行しなければならない:

(一)内部と外部の色法の観照

(二)内部と外部の名法の観照

(三)内部においても、外部においても、同時に、名法と色法の二者を観照する。

(四)内部と外部にある名色法の中において、人、我、衆生などは存在していない事を識別する。

これは《大念処経》の中において言及されている所のの観禅の第一段階である。

 (6-49につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemī>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-47(217/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

12.4.32 身正直性(kāyujjukata)

身正直性の特徴は、心所の正直性である;

作用は心所の欺瞞性の突破;

現起(現象)は心所の狡猾、欺瞞でない事;

近因は相応の心所。

12.4.33 心正直性(cittujjukata)

心正直性の特徴は、心の正直性である;

作用は心の欺瞞性の突破;

現起(現象)は心の不狡猾、不欺瞞;

近因は相応の心。

正直性とは、心所と心の正直性を言う。

それらの二者は、心所と心が不正直と湾曲的な虚偽、虚構(=嘘っぽさ)、詐欺と狡猾に向かうのを対治する。

虚偽(māyā)の特徴は、己の過失を隠蔽する事。

虚構(=嘘っぽさ)の特徴は、己自身にない美徳が有るかの様に振る舞う事。

時々、人々の行為は不誠実であったりする。

《清浄道論》では以下の様に言う:

我々は、某比丘が、虚偽、暗示、へつらい、まがりくねった言い方、不思議な表情と手真似で、資具を得る行為をする話を読むことができる。

彼は、実際より以上に善い人間であると仮装して、人々の尊敬を勝ち取っていたのである。

《清浄道論》では又いう:

ここにおいて、ある種の人間は、心に邪悪な願望を抱いて、願望の獲物(+を探し)、尊敬を得る様渇望して、心の中において想う:「この様にすれば、人々は私を尊敬するであろう」

こうして、歩くときの方式を設計し;

横になるときの方式を設計し;

研究した歩き方で歩き、

研究した立ち方で立ち、

研究した座り方で座り、

研究した横の成り方で横になる;

彼の歩き方は、心が非常に安定いている様に見え、

立ち、坐り、横になる時も心が非常に安定している様に見える;

は大衆の前において禅の修行をし・・・。

 

我々は、人から尊敬されたいと思って、実際の自分より更によい人間であると仮装(=己自身の様子を偽る事、以下同様)する時がある。

たとえば、我々が布施をする時、己自身の行動の中に、利己的な動機が存在している時がある。

我々は、よい報いを受けたいと思い、褒め言葉を貰いたいと思い、有名になりたいと思う。

人に聞かせる感動を伴う物語は、利己的な利益のためであったりする。

正直性は、この様な不誠実を突破する。

それは、一つひとつの善心を支援する。

正直性には多くのレベルがある。

正見が上昇する時、正直性もまた同時に向上するし、また、正見は正直性と共に俱生するのである。

四聖諦を正見し、了知する時、正直性もまた同じく、それを了知する。

四聖諦を了知した聖者は、歩くときも正直で、真正で、正確なる道の人である、と言われる。

彼は中道を歩き、両端を避ける;

彼は煩悩を滅尽することに向かう道を進む;

一切の、生起する究極法を了知して、正見を育成する時、たとえ貪と瞋に相応する不善心を了知する所の正見を育成した時、彼は、観智でもってそれらの不善行心を無常・苦・無我として観照することができるが故に、彼は中道を歩んでいるのだと言える。

もし、一直線に中道を歩むならば、我々は日常生活の中において正見を育成することができる、(+たとえば)我々が笑う時も泣くときも、怒っている時も、布施する時も。

もし、一つひとつの行法を無常・苦・無我として観照するならば、我々は真諦を学び取ることができ、一つひとつの究極法はみな、因と縁の和合によって生起したものである事を学び取ることができる。

直前に《清浄道論》における不誠実に関する解釈に言及したが、当該の比丘は、歩くとき、立つとき、坐るとき、横になるとき、心が非常に安定している様に見えると述べた。

ある種の人々は、彼の心が非常に安定していて、それらの行為を実行しているのだと信じるかもしれない。

心が非常に安定して事を成すのは善法であるが、しかし、この話においては、違っている。というのも、彼は己自身より更によい人間であるかの如く、仮装して振る舞っているが故に。

究極法を明記する正念が存在する時、我々はそこに顕現する心は善心であるか、または不善心であるかを知る事ができる。

我々は己自身を理解することができ、それ故に、更に誠実になることができる。

歩くに中道の人は、己自身に誠実であり、煩悩がないなどと仮装する事もない。

煩悩を如実に知見することができる時初めて、煩悩を断じ除く事ができる。心所と心の正直性は、正見を育成する心と随伴して、当該の心がその任務を遂行する事に協力する。

ここにおいて、心軽安を通してのみ、心が軽安と、軽快、柔軟、適業、練達と正直になる事が出来る(+事を表明する)。

そして、名身の軽安を通して、ただ名身が軽安に変化するだけでなく、色身もまた軽安などなどに変化するのある。

これが、なぜ、世尊が、ここで(+は言及しながら)、一切処において、二種類の心所に言及しないのか、という理由でもある。

多くの種類、多くのレベルの智慧がある。

仏法を研究した後、我々は究極名色法及び業報の法則に関して理論的な智慧を持つことができる。

近行定または安止定を基礎にして、更に智慧を育成することができ、究極名色法及びその因を、己自身で自ら体験証悟した事によって智慧を擁する時、それはまた縁起を己自身で自ら体験した事でもある。

究極名色法及びその因は行法である。

禅修行者は、系統的にそれらを無常・苦・無我として観照して、究極法に関する智慧を成熟させなければならない。

それが成熟した時、究極法を自ら体験証悟した智慧、すなわち、聖道智と聖道果は、至上の智慧として、展開することとなる;聖道智は、徐々に一切の煩悩を断じ除く。

諸々の究極法を如実に知見することは、仏教の目標である。

智慧とは、究極的には、何が真実であり、何が真実でないかを了知する事である。

いまだ身見があるならば、我々は諸々の法を如実に知見することはできない。

究極的に、人、動物と家屋は、すべて真実ではない。

それらはただ想像上の対象であり、それらを構成している、単なる名色法または色法に過ぎない。

究極的には、名色法は真実である。それらは、近行定または安止定を基礎とした、透視を通した観智でもって、自性相を己自身自ら証悟(+されなければならない。)

更に高度なレベルの育成、究極法を己自身自ら証得する事に関して、究極法の自性相を了知するだけでは足りない;

自性相は、それらの区別が明確になる(+ための)相である。順序に従って智慧を育成し、有為法の三種類の共相:無常相、苦相、無我相を透視しなければならない。

この種の智慧は、観智と呼ばれるが、それは、人をして、この生において、涅槃を証悟する為の聖道智と聖果智が生起する助縁となるものである。

この種の智慧は、究極法と涅槃の真正なる本質を了知して、煩悩を断じ除く事ができが、しかし、唯一、仏陀だけが、それの指導と育成を行うことができる。

この種の智慧は、自動的に生起することはなく、育成されなければならない。

あなたは、この大切なチャンスを逃してはならない。

修行を通して、究極法の真正なる本質を了知して、涅槃を証悟するべきである。

《法句經》の偈に言う:

不放逸は不死の道であり、放逸は死の道である。

不放逸なる者は不死であり、放逸者はすでに死んでいるのと同じである。

(6-48につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi> 

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-46(214/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

12.4.28 身適業性(kāya-kammaññatā)

身適業性の特徴は、心所の不適業性の除去;

作用は心所の不適業性の突破;

現起(現象)は心所のある種の所縁(たとえば、安般似相)を目標に取る事に成功する事;

近因は相応の心所。

12.4.29 心適業性(citta-kammaññātā)

心適業性の特徴は心の不適業性の除去;

作用は心の不適業性の突破;

現起(現象)はある種の所縁(たとえば、安般似相)を目標に取ることに成功する事;

近因は相応の心。

それらを心所と心の作業に不適応のその他の諸々の蓋を対治するものであると見做す、また、それらを、信じるべき事柄を信じることと見做す。

《増支部》では、以下の様に言う:

金を不純潔、脆弱、不柔軟、不適業にするものは、五種類の汚染であり、それはその他の金属が混ざった時であり、それを不適業にするのはすなわち、鉄、銅、錫、鉛、銀である。

同様に、五蓋は心を不適業にする:

「・・・同様に、比丘たちよ。

五種類の汚染がある;

それらの汚染を受けた心は、不柔軟、不適業、不清浄で輝かない、不安定になり、諸々の漏を断じ除くための、それらに対する専注を正確に実践できない。

この五種類の汚染とは何か?

それらは:欲欲、瞋恨、昏沈と睡眠、掉挙と後悔、疑である。

これらは心をして不柔軟、不適業、不清浄で輝かない、不安定にし、諸々の漏を断じ除くための、それらに対する専注を正確に実践できない様にする。

しかし、もし、心がこの五種類の汚染から脱離することができるならば、それは柔軟になり、適業になり、清浄で輝き、安定し、諸々の漏を断じ除くための、それらに対する専注を正確に実践することができる。

智慧が了知し、悟ることのできるすべての法において、彼は心をしてそれを了知、悟ることができるように導き、向かわせることができる。

その範囲がいかに多く、広くとも、彼はその一つひとつに通達することができる。」

《殊勝義註》では以下の様に言う:

適業性は、信ずるべき事柄を信じることができる様にせしめる、また善法を根気よく実行する様になる。

一つひとつの善行に対して、たとえば、布施、持戒、止禅または観禅の修行などにおいて、名法の適業性はみな、必要である。適業性は、心をして作業に適合せしめ、己自身をして、自信を持たせしめ、根気よく善業実行せしめる様にすることができる。

たとえば、誰かが安般念を、禅修の業処として、止禅を修習しようとする時、もし、名法の適業性がないならば、彼は修習に成功することができない。

彼は適業性も基づいて、自信をもって、かつ根気よく、パーリ聖典の中において言及されている所の系統的な順序に従って安般念を修行しなければならない。

もし適業性がないならば、どの様な禅修業処をもってしても、安止に到達することはできない。

観禅の修習をする時、心所と心の適業性は、それらを作用を執行する。

それらは、名色法に関する了知するための正見を、根気よく育成する所の助縁である。

名色法をば、ただの有為法に過ぎない、無我である事を了知して、正見を擁する時、それは、心の適業性を擁する事を意味する。

観智を育成して五蓋を断じ除くことを向かわせる。

それらをすでに断じ除いた人は、すでに円満なる適業性に到達することができる。

12.4.30 身練達性(kāya-paguññatā)

身練達性の特徴は、心所の健全性であ;

作用は、心所の不健全性の突破;

現起(現象)は心所の欠点、障礙のない事;

近因は相応の心所。

12.4.31 心練達性(citta-paguññatā)

心練達性の特徴は、心の健全である;

作用は心の不健全の突破;

現起(現象)は心の欠点、障礙のない事;

近因は相応の心。

この二者を心所と心の不健全なる無信の対治と見做す。

この事は、心所をして健全にせしめ、能力を高め、効力を発揮せしめる事ができる(+事を意味する)。

練達性は、布施、持戒、止禅または観禅の修習などの善行を実行するにおいて、健全であり、能力があり、効力がある、といえる。

この二者は、心の疾病を対治することができ、また、心の疾病である無信などの煩悩の対立法となり得る。

もし、心が不善心である時、善法を信じないし、それは心に疾病があるのだと言える。

名法の練達性は、善心に協調して、心と心所を健全で善なるもの巧みなものとし、最も効果的にそれらの作用を執行できる様にする。

善業の効力は、多くのレベルを擁している。戒・定・慧の三学に対する正見を育成する時、それはすなわち、一切の善法の練達性と善なる巧みさを育成しているのである。

ソータパナはすでに、邪見、疑と慳を滅尽しており、永遠に五戒を犯すことがない。

彼の布施と持戒は非聖者の布施と持戒より清浄であり、かつ、「私の善法」などと言う邪見に執着することがない。

彼の仏陀の教法に対する信心(=確信)は、動揺することはなく、それはすでに一種の「エネルギー」となっている。

非聖者と比較するに、彼は善法に対して、高いレベルの効力と能力を擁している。

彼は、その他の人々の修行を効果よく助けて、四聖諦を証悟する道に導き、向かわせることができる能力を擁している。

このことから、己自身が正見を育成することは、他者とも関連があることを知る事ができる。

更に高度なレベルの証悟を証得する時、また、その他の煩悩を断じ除く時、更に高度な練達性が存在する。

阿羅漢果を証得するとき、練達性は円満する。

(6-47につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

般若の独り言~仏教徒の矜持

仏教徒は怒らない、怒ってはならない・・・って本当でしょうか?

まず、聖者なら、あまり怒らないだろう、という事は想像が付きます。

悟りを得た聖者は、身体・物質は、素粒子でできていて、それは無常・苦・無我であり、心の働きもまた無常・苦・無我であり、かつそれは縁と因によって生起する事から、己自身を含む、認知、認識の対象や現象に対して怒っても、無意味である事を知っていますから。

しかし、ゴータマ仏陀だって怒る・・・正確には不愉快に感じる・・・事はあった様です。

菩提樹の下で修行され、証悟を得た後初めて、母国、故郷のカビラバットゥに帰った時(凱旋でしょうか?)、

「なに、あの若造が戻ってきたのか?」

と言って、彼を馬鹿にして、母国の人々は、誰一人迎えに出ない、という事が起こりました。

ゴータマ仏陀は、これは仏陀に対する正しい態度ではない、と思い、双神変を示し見せた所、母国の人々は恐れ入って、総出で出迎えたそうです。なお、双神変とは、足から火を、手から水を、同時に吹き出す所の、仏陀にしかできない神通の事です。

間違ったプライド、過度なプライドは、己自身も、他者をも傷つけますが、我々仏教徒は、仏教徒としての矜持はあるはずで、それは保たねばならない。

聖者の矜持、仏教徒の矜持・・・それは、仏の顔も三度まで、または高度な神通となって示される、というわけです。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-45(211/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

12.4.24 身軽快性(kāya-lahutā)

身軽快性の特徴は、心所の沈重性を取り除くこと;

作用は心所の沈重性の突破;

現起(現象)は心所の不軟弱;

近因は相応の心所。

12.4.25 心軽快性(citta-lahutā)

心軽快性の特徴は、心の沈重性を取り除く事;

作用は心の沈重性の突破;

現起(現象)は心の不軟弱性;

近因は相応の心。

この二者は、心所と心に沈重を齎す昏沈と睡眠を対治すると見做すことができる。

《法聚論》に基づくと、この一双の心所は、軟弱無力でないところに存在し、それは「警覚(=するどい気づき、以下同様)」を擁するものである、とする。

《根本疏鈔》では、心所と心の軽快性に言及して、その含意を明確に、以下の様に言う:

「心をして、迅速に善法または無常観などに転向せしめる能力である」

軽快性は、善法が沈重軟弱になる昏沈と睡眠を(+対治する)対立法である。

不善心が存在する時、すなわち、沈重性であるが、我々は何等の善法も実行できなくなる、たとえば、布施、持戒、止禅または観禅の修行等。善心には信が必要であり、念または忘れない(+という心)が必要であり、名法の軽快性でもって、沈重性と膠着性(=、固着性、心のこわばり、以下同様)を克制しなければならない。

心所と心の軽快性が存在する時、それは気づきをもって反応し、善法の実践のチャンスを逃すことがない。

たとえば、あなたが、安般念の修行をしていたとする;その時、多くの時間において、警覚心(=するどい気づきの心、以下同様)はないであろう。

あなたは昏沈と疲労を感じ、息を覚知する事に興味がなくなる。

しかし、正念の生起する時、心所と心の軽快性は、それらの作用を執行しているものである;

疲労が消え去ると、次に登場するのは警覚心である。

定力が上昇する時、軽快性もまた上昇する。

定が安般似相に専注する時、軽快性もまた心の沈重と軟弱を断じ除く作用を執行する。

軽快性があるために、疲労は消失し、次に安般似相に専注する警覚心がやってくる。

正見を育成するにも軽快性は必要である。

究極名色法およびその因を了知する所の正見を育成する時、軽快性が軟弱性を断じ除いている。もし、このチャンスを逃さないならば、必ずや、最終的には、究極法を無常・苦・無我として知見することができる。

観智が更に一歩進んで上昇する時、観智の末端において、涅槃を目標に取る所の聖道智が生起する。

この時、軽快性もまた、聖道心と相応して生起し、涅槃を縁として目標に取る。各々のレベルの聖道智に相応しながら生起する所の軽快性は、段階的に沈重性と軟弱性を断じ除いていく。

それらを完全に断じ除いた人は、二度と沈重性と軟弱性を擁することはなく、円満なる軽快性に満たされる。

 12.4.26 身柔軟性(kāya-mudutā)

身柔軟性の特徴は、心所の固着性を断じ除く事である;

作用は、心所の膠着性(=固着性、以下同様)の打破;

現起(現象)は目標に対抗しない事;

近因は相応する心所。

12.4.27 心柔軟性(citta-mudhutā)

心柔軟性の特徴は、心の膠着性(=固着性)を断じ除く事である;

作用は心の膠着性(=固着性)の突破;

現起(現象)は目標に対抗しない事;

近因は相応の心。

この二者は、心所と心の固着性を引き起す邪見または我慢(=傲慢、以下同様)を対治すると見做すことができる。

心所と心の柔軟性は、全面的に、邪見と我慢に対抗する。

邪見は膠着性と固執を招く。

たとえば、ある人が不正確な修行に執着する時、その中には名法の膠着性がある事の表現である。

彼は自分自身の古い習慣や考え方堅持しており、故に、邪見を断じ除くのは非常に困難である。

また、ある人が、仏陀の弟子は、透視をしたり、究極名色法を識別できないといい、究極法を識別する智慧は、彼らの範疇の外である、というか、または色聚と呼ばれる微小粒子を見る事等できない、という。

これらの偏見は、究極法を了知する事への障礙になる。

仏法を聞いた後に、我々はそれを正しく思惟し、それに対して正しく修行するならば、観智の育成の始まりが可能になるかも知れない。

我々は、一気に、一切を円満に了知することができる、などと考えてはならない。

我々は、順序に従ってそれを育成しなければならないが、それはすなわち、戒清浄、心清浄などなどである。

心所と心の柔軟性もまた、我慢(=傲慢)を対治することができる。

心に我慢(=傲慢)のある時、心は固着する。

 我慢は、己自身の健康、外面、成功、栄誉と聡明によって生起する。我慢とは、非常に断じ除くことの難しいものである。

唯一阿羅漢のみが、完全にそれを滅尽することができる。

心所と心の柔軟性は、善心を支え、(+それが存在する時)名法の固着性、不寛容は存在せず、正しい事柄に対して、心は開明性を保つ。

名法の柔軟性は世故であり、粗雑でなく、固着がない。

慈愛または瞋恚のない時、世故と温和が存在する。

一つひとつの善行、たとえば、布施、持戒、止禅または観禅の修行において、名法の柔軟性は、必要欠くべからずな事柄である。

仏法を聞くときもまた、柔軟性が必要である。

それがなければ、開明的に、仏法を受け入れることができない;

正念をもって、究極法を如実知見している時もまた、柔軟性が必要である。

(6-46につづく)

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