<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
12.4.28 身適業性(kāya-kammaññatā)
身適業性の特徴は、心所の不適業性の除去;
作用は心所の不適業性の突破;
現起(現象)は心所のある種の所縁(たとえば、安般似相)を目標に取る事に成功する事;
近因は相応の心所。
12.4.29 心適業性(citta-kammaññātā)
心適業性の特徴は心の不適業性の除去;
作用は心の不適業性の突破;
現起(現象)はある種の所縁(たとえば、安般似相)を目標に取ることに成功する事;
近因は相応の心。
それらを心所と心の作業に不適応のその他の諸々の蓋を対治するものであると見做す、また、それらを、信じるべき事柄を信じることと見做す。
《増支部》では、以下の様に言う:
金を不純潔、脆弱、不柔軟、不適業にするものは、五種類の汚染であり、それはその他の金属が混ざった時であり、それを不適業にするのはすなわち、鉄、銅、錫、鉛、銀である。
同様に、五蓋は心を不適業にする:
「・・・同様に、比丘たちよ。
五種類の汚染がある;
それらの汚染を受けた心は、不柔軟、不適業、不清浄で輝かない、不安定になり、諸々の漏を断じ除くための、それらに対する専注を正確に実践できない。
この五種類の汚染とは何か?
それらは:欲欲、瞋恨、昏沈と睡眠、掉挙と後悔、疑である。
これらは心をして不柔軟、不適業、不清浄で輝かない、不安定にし、諸々の漏を断じ除くための、それらに対する専注を正確に実践できない様にする。
しかし、もし、心がこの五種類の汚染から脱離することができるならば、それは柔軟になり、適業になり、清浄で輝き、安定し、諸々の漏を断じ除くための、それらに対する専注を正確に実践することができる。
智慧が了知し、悟ることのできるすべての法において、彼は心をしてそれを了知、悟ることができるように導き、向かわせることができる。
その範囲がいかに多く、広くとも、彼はその一つひとつに通達することができる。」
《殊勝義註》では以下の様に言う:
適業性は、信ずるべき事柄を信じることができる様にせしめる、また善法を根気よく実行する様になる。
一つひとつの善行に対して、たとえば、布施、持戒、止禅または観禅の修行などにおいて、名法の適業性はみな、必要である。適業性は、心をして作業に適合せしめ、己自身をして、自信を持たせしめ、根気よく善業実行せしめる様にすることができる。
たとえば、誰かが安般念を、禅修の業処として、止禅を修習しようとする時、もし、名法の適業性がないならば、彼は修習に成功することができない。
彼は適業性も基づいて、自信をもって、かつ根気よく、パーリ聖典の中において言及されている所の系統的な順序に従って安般念を修行しなければならない。
もし適業性がないならば、どの様な禅修業処をもってしても、安止に到達することはできない。
観禅の修習をする時、心所と心の適業性は、それらを作用を執行する。
それらは、名色法に関する了知するための正見を、根気よく育成する所の助縁である。
名色法をば、ただの有為法に過ぎない、無我である事を了知して、正見を擁する時、それは、心の適業性を擁する事を意味する。
観智を育成して五蓋を断じ除くことを向かわせる。
それらをすでに断じ除いた人は、すでに円満なる適業性に到達することができる。
12.4.30 身練達性(kāya-paguññatā)
身練達性の特徴は、心所の健全性であ;
作用は、心所の不健全性の突破;
現起(現象)は心所の欠点、障礙のない事;
近因は相応の心所。
12.4.31 心練達性(citta-paguññatā)
心練達性の特徴は、心の健全である;
作用は心の不健全の突破;
現起(現象)は心の欠点、障礙のない事;
近因は相応の心。
この二者を心所と心の不健全なる無信の対治と見做す。
この事は、心所をして健全にせしめ、能力を高め、効力を発揮せしめる事ができる(+事を意味する)。
練達性は、布施、持戒、止禅または観禅の修習などの善行を実行するにおいて、健全であり、能力があり、効力がある、といえる。
この二者は、心の疾病を対治することができ、また、心の疾病である無信などの煩悩の対立法となり得る。
もし、心が不善心である時、善法を信じないし、それは心に疾病があるのだと言える。
名法の練達性は、善心に協調して、心と心所を健全で善なるもの巧みなものとし、最も効果的にそれらの作用を執行できる様にする。
善業の効力は、多くのレベルを擁している。戒・定・慧の三学に対する正見を育成する時、それはすなわち、一切の善法の練達性と善なる巧みさを育成しているのである。
ソータパナはすでに、邪見、疑と慳を滅尽しており、永遠に五戒を犯すことがない。
彼の布施と持戒は非聖者の布施と持戒より清浄であり、かつ、「私の善法」などと言う邪見に執着することがない。
彼の仏陀の教法に対する信心(=確信)は、動揺することはなく、それはすでに一種の「エネルギー」となっている。
非聖者と比較するに、彼は善法に対して、高いレベルの効力と能力を擁している。
彼は、その他の人々の修行を効果よく助けて、四聖諦を証悟する道に導き、向かわせることができる能力を擁している。
このことから、己自身が正見を育成することは、他者とも関連があることを知る事ができる。
更に高度なレベルの証悟を証得する時、また、その他の煩悩を断じ除く時、更に高度な練達性が存在する。
阿羅漢果を証得するとき、練達性は円満する。
(6-47につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>