南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-50(225/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

13.1.1 縁摂受智

この様に修行する時、あなたは容易に、過去世において累積した業力が、あなたのこの一世の結生刹那の時の色蘊を生じた事を了知することができる。

この種の因彼所縁関係はどの様にして観察するのか?

この段階において、あなたはすでに心所依処に依存して生起する所の心が、多くの心生色聚を生じる事を観察したことがあるため、心と心生色法の間の因果関係も観察することができる。

心が心生色法を生じる状況と同じく、業力は、業生色法を生じることができる。

業力が業生色法を見たと確定できたならば、更に一歩進んで以下の様な観照をする:

1、[前世の]無明が生起するが故に、結生刹那の色法が生起する;

無明は因、結生刹那の色法は果。

2、[前世の]愛が生起するが故に、結生刹那の色法が生起する;

愛が因、結生刹那の色法は果。

3、[前世の]取が生起するが故に、結生刹那の色法が生起する;

取が因、結生刹那の色法は果。

4、[前世の]行が生起するが故に、結生刹那の色法が生起する;

行が因、結生刹那の色法は果。

5、[前世の]業が生起するが故に、結生刹那の色法が生起する;

業が因、結生刹那の色法は果。

次に、前世の業力と今世の結生時の名法の間の因果も観照しなければならない。その後、前世の業力と今世のこの一世の中の、果報五蘊の間のすべての因果関係を観照しなければならない。

特に、六門の心路過程に注意を払う事。

前世の無明、愛、取、行及び業が生起するが故に、今世の色蘊などが生起する;

前世の無明、愛、取、行及び業は因、今世の色蘊などは果、これが行法の因縁生の観照である。この様に観照する智慧は、縁摂受智(paccaya-pariggaha-ñāṇa)と言う。

13.1.2 縁起を観察するもう一つ別の方法

縁起第一法の方式は:

1、無明の縁によりて行あり;

2、行の縁によりて識あり;

3、識の縁によりて名色あり;

4、名色の縁によりて六処あり;

5、六処の縁によりて触あり;

6、触の縁によりて受あり;

7、受の縁によりて愛あり;

8、愛の縁によりて取あり;

9、取の縁によりて有あり;

10、有の縁によりて生あり;

11、生の縁によりて、老、死、愁、悲、苦、憂、悩あり。

一切の苦蘊は、格の如くに生起する。

比丘たちよ。

これを縁起と言う。

上に述べたものは縁起第一法である。

この第一法に基づいて、あなたは以下の如くに因果を識別する事ができる:

無明が生起するが故に、行が生起する;無明は因、行は果;などなど。

この第一法において、無明と行は現在果報蘊の過去因である;果報蘊は識、名色、六処、触と受である。

愛、取と業は、未来果の現在因である;未来果は生有、生と老死亡である。

もし、無明があるならば、愛と取もまた存在する。

同様に、もし愛と取があるならば、無明もまた存在する。

というのも、それらは常に相い炊飯して生起するが故に。

同様に行があるならば、業力もまた存在する;

もし業有があるならば、業力も、行もまた存在する。

《発趣論》(Patthana)の業縁(kamma-paccaya)の章によると、行の業力は業または業有と呼ばれる。

 こうした事から、第一法の中には、五個の過去因と五個の現在果があり、また五個の現在因と五個の未来果がある事になる。

五個の過去因は無明、愛、取、行及び業である。

五個の現在果は、識、名色、六処、触と受である。

五個の現在因は、無明、愛、取、行及び業または業有である。

五個の未来果は、識、名色、六処、触と受であり、言い換えれば、生、老と死である。

何故であるか?

この五果は、果報五取蘊であるが故に。

五取蘊の生時を生と言い、住時を老と言い、壊滅時を死という。

もし、あなたがこの解説を理解することができるならば、我々は、あなたは、第一法の含意と第五法の含意は同じである事を容易に理解することができる様に願っている。

無明は、独自に生起することはできず、心路過程の中の相応する名法と同時に生起する。

行もまた同様である。

故に、無明を識別する時、ただ無明をのみ識別するのではなく、過去世の意門心路過程の中の、それと共に生起する所の相応する名法もまた、識別しなければならない。

同様に、行を識別する時、ただ行を識別するのではなく、過去世の意門尊路過程の中の、それと共に生起する所の相応する名法もまた識別しなければならない。

我々は言う、意門心路過程は、五門心路過程の中の行が結生を生じることが出来ない場合の果報五蘊である、と。

經の教法によると、識、名色、六処、触と受は、果報蘊に過ぎない。

もし、詳細にそれらを理解したいのであるならば、あなたは一人の良師を得て、学習しなければならない。

ここでは、我々は簡略な資料を提供するのみである。

(6-51につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>