Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

老婆の独り言~生春巻きの練習

私が住むY盆地は、温泉が出るので、一応は、

<(超)有名温泉観光地>という位置づけ。

このY盆地に、遠くミャンマーから、嫁いで来た女性がいます。

彼女とは、時々会って、お互い恙なきを確認し合い、友情を確かめ合っているけれども、このコロナ騒ぎで、最近は会えないでいます(どちらが発症しても、「国へ帰れ」と言われそうで、ちょっと怖い~苦笑)。

今度会う時、彼女はシャン・カウ・ソェー(シャン風うどん)を作って、ご馳走してくれるそうです。

私は、<生春巻き>を作ろうと思い、隣町の大きなスーパーまで行って、ライスペーパー、チリソースなどを買ってきました。

以前、ライスペーパーを湿らせたものを、どんどん積み上げたら、全部くっつき合って、お団子状の塊になった事がありましたが、彼女と会う当日に、同じ失敗をしては目も当てられませんので、あらかじめ、練習してみました。

今回は、一枚濡らして具を包み、また一枚濡らして・・・と慎重に取り扱って、なんとか成功しました。

具は、定番のエビ、ニラの他、ゆで豚、ビーフン、春雨、大葉、キュウリなど、その時々に、手に入り易いものでOK。

子供の時、祖母がこれに<ピーナツの砕いたもの>を入れるのが、私は嫌だったのですが・・・台湾で潤餅(runpyia)と呼ばれる、おやつの一種ですが・・・今は好みも変わって、<ピーナツの砕いたもの>も入れてもいいなぁ、と思っています(祖母は、ビール瓶をゴロゴロさせて、ピーナツを砕いていましたっけ~笑)。

生春巻き、彼女、喜んでくれるかしら?

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

老婆の独り言~山頭火を読む

先日、知り合いの老女から

『「愚を守る」ってなんですか?』

と質問されました。

自分なりに、答えは既にあるのですが、

山頭火著作集Ⅲ】の副題が[愚を守る]

なのを発見しまして、参考までに、読んでみました。

山頭火の著書は、若い時に一度読んだことがあります。

漂泊の乞食僧という生き方は、私は好きですが、出家しながら、猶、酒好き、女性好きというのはどういう事かと、一滴もお酒を飲めない私は、当時、「??」でした。

今回、改めて読んでみて、山頭火

己の原点に帰るべし、

音は音として(妄想せず)、

執着を放下着・・・

等など、仏道で要求される修行はしているのですが、どうしても自由律俳句で自己表現がしたい・・・

この矛盾に苦しんだのかも知れません。

仏道の修行は言語道断、言葉を離れたところに穏座せねばならないのに、己に深く沈潜すると、心の底から、言葉が湧いて来る・・・

僧侶で詩人という存在は、難しいものだと、思いました(以前なら、出家していながら酒を飲み、いつも句作の事ばかり考えているなんて、仏陀の弟子ではありえない、と批判したかも知れませんが、私も年をとって、人は業を背負って苦しむ存在であることが分かってきましたので・・・人間、そんなに簡単に悟れるものではないですね)。

注:南伝仏教(タイ、緬甸等)では、出家した比丘が、酒を飲み、女性関係があれば、即刻、サンガ追放です。「戒・律を守れないならば、還俗して、在家で修行して頂きたい」となります。

日本の大乗仏教は、酒、異性、金銭に大甘で、その為、ゴータマ仏陀の教え(の原点)が分かり難くなっている、と思います。

中華圏の大乗は、今も、酒と異性に厳しいです。金銭受持には少し甘く、肉食には厳しく、出家者全員、菜食を守っています。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

老婆の独り言~徒然

早朝、庭に出てみました。

菊やミソハギ、それにバラが咲いていたので、摘んで花瓶に飾りました(例によって、ただの<投げ入れ>)。

菊やミソハギはともかく、この暑さの中でバラが咲いているのには吃驚。

パリジェンヌ(ピンク)一輪。

アウグスタ(ピンク、花びらヒラヒラタイプ)一輪。

名称不明(白色。以前ご紹介した<白雪姫>と違って、花首が細く、うつむいて咲くタイプ)一輪。

トマトは一杯成っていましたが、台所にすでにあるので、今日はパス。

茄子は小さいのが一つ・・・摘むのはまだ早い。

オクラ少々・・・、

茗荷(庭の奥、暗がりに、勝手に生えている)は蛇が恐いので、パス。

7月豪雨で一か月庭に出られず、今は熱中症が恐いので、30分も出ていられない。

庭は、雑草でジャングル状態・・・少し焦る。

理想としましては、精舎の玄関先から、水道のメータの有る所まで15mほど?、小さな遊歩道を作って(水道検針の方に雑草の中を歩いてもらうのが心苦しい為)、ガーデンファニチャーを置いて、山を見ながらお茶を飲んだり、瞑想出来る様にして・・・

また、レンガで囲った花壇をいくつか作って、花園と菜園の区別をつけて、庭のある生活をもうすこし楽しいものにしたい・・・。

秋になったら、思い切って、造園業者と相談してみよう・・・

それまでに、どんな庭にしたいのか、よく考えて・・・

ここに来て9年経ちまして、好きな花木の傾向も決まりましたから、後は、雑草よけに飛び石を置くか、遊歩道を作るか・・・枕木並べるのもよいですが、私には手にあまるかも、です(笑)。

  <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

老婆の独り言~蓮の花

蓮の花が咲きました。

といっても、我が精舎に池はなく、これは、茶碗蓮ならぬ、バケツ蓮です(左に少し見えるのはスイレンです)。

蓮の花は、仏教では、深い意味を持ちます。

私がタイで修行していた時(40年前)、朝、托鉢に来る

僧侶に差し上げようと、信者さんが、白飯や色々な

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おかずの他に、蓮の花を持って、家の前で僧侶が来るのを待っている様を、よく見かけたものです。

蓮の花は、泥の中から茎を伸ばして、色とりどりの花を咲かせますが、その葉と花びらは、水を弾いて、穢れる事がない。

私たち凡夫は、凡夫であるが故に、<無明>

(=器世間、身・心に関する真理や道理に無知な事)

を抱え持ちますが、ゴータマ仏陀の教えし八正道、なかでも正念と正定が随時に保持できる様になったならば、

<無明>の中から、清らかな茎が伸びて、やがて<明>

智慧、叡智)の花を咲かせる事ができる・・・

と、蓮に関して、私はその様なイメージを持っています。

泥(無明)に埋まった身を嘆かず、粛々と修行する・・・

日々の修行(八正道)の蓄積、その機縁が熟した時、修行者の心に<明>が訪れる・・・その時の喜びは、何よりも代えがたい・・・財産や地位や名誉は、何かの事由で失う事があるけれども、己の心に花開いた<明>は、誰も、決して、奪う事ができないが故に。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

老婆の独り言~暑い8月

8月は、広島・長崎原爆記念日と日本終戦(敗戦)と続きますから、太陽が熱いだけでなく、心も熱く、ざわざわします。

私は日本生まれの台湾人で、日本の終戦は、台湾では光復(国土の復活、植民地からの解放)と位置付けられます。

人間にとって一番大事なのは平和と、健全な心でしょうか。

2600年前、ゴータマ仏陀はガヤー(現在のブッダガヤ)で悟りを開いた後でも、将来の国王を約束されたご自分の国には帰らず(釈迦族への説法の為に、帰国はしましたが、宮殿には入らず、乞食・遊行していた様です)、一生涯、縁ある人々に寄進して貰った、複数の精舎を行き来しながら遊行し、説法し続けました。

彼が、国に帰って王位につけば、類まれな善政を施いたでしょうが、それをせず、三衣一鉢の簡素な生活の内、当時のインド東部、ガンジス川流域の人々に、無常・苦・無我に基づく、個人の魂・心の解放を説いて回りました・・・

何事も<心>が先行し、また、個々人には、(輪廻の先まで)業がついて回るが故に。

最近、週一で老人の集まりに顔を出しています(簡単な運動をしたり、リハビリをしたり)。

そこで、あるお年寄りの女性(御年93歳)から

『「愚に徹する」とは何か?』

南伝仏教でも「白道」を言うか?』

という、質問を頂きました。

ゴータマ仏陀の教えを、教条や受け売りでない、自分の体験に基づいた、自分の言葉で説明し、回答したいものだと、次にお会いする日を楽しみにしている所です。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>。

 

老婆の独り言~今ここの身体

今年3月初め、禅病を発症した事は、前のブログで、何度か報告をしました。

最初の二か月程は、一週間に一度、パニックを起こしまして、その度に、インドで修行されたというヒーラーの先生を頼って、彼に《手当て》をして頂いていました

・・・先生が、私の身体症状を「禅病だ」と診断して下さった時は、自分の予備的診断と合致したので、大いに安心したものです。

(大変稀な、不思議な病気ですから、普通の病院の内科、心療内科、精神科には行ってはいけないです、誤診されますので)。

現在、最悪の時期は峠を越して、現時点では、頭頂部から下丹田へと、<(邪)気>が流れていくのを、静かな心で観察する事が出来る様になっています。

この間、<気>について書かれている本を探していて、

片山洋次郎氏の著書を見つけました。

まず

[オウムと身体]を読み、

今は

[生き抜くための整体]

[気と身体]

[骨盤にきく]

[気ウォッチング]を読んでいます。

彼の主張の中で

【今ここの身体感覚に生きる】

という言葉に、ハッとさせられました。

私は一度だけですが、7、8年ほど前に、パニック障害になった事があります。

切っ掛けは特にないのに、急に心臓がバクバクして、今にも死ぬのではないか、と思ってしまう。

発症の最初、大変に驚きましたが、私はまっさきに

「心臓がバクバクしたくらいでは死なない」

「焦らない、驚かない」

と、あまり根拠のない(?)決意をし、その後は、心の持ち様を

<今・ここにおいて、平常心でもって、心臓のバクバクを観察するのだ!(心臓を見切れない時は、安般念を併用)>、

というスタンスに切り替えました。

すると、心臓のバクバクは徐々に止んで、10分ほどで、何事も無かった様に、平静になりました。

今・ここにおいて、己自身が、己自身の観察者になる・・・

これが出来たならば、多くの心理的、身体的困難を、乗り越える事ができるのではないでしょうか・・・凡夫にとっては、乗り越える事が難しい難題も多々あり、この手法が万能である、とはいいませんが、非常に有用であると、思っています。

凡夫は凡夫なりに<精進あるのみ>、です。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

老婆の独り言~難病に思う(正念と正定)

先日、京都で、ALSの患者さんに、二人の医師が過剰な睡眠薬を注射して、死に至らしめたニュースが流れました。

ALSの患者さんが依頼した、嘱託殺人、との事です。

難病にかかったら、生きていたくない、死にたくなる・・・というのは、よく理解できます。

私は、50歳の時に癌にかかり、手術は成功したものの、その後、手術の傷が癒えぬうちに、ある看護師さんに心無い一言を浴びせられ、

それから毎日、

『明日死のう、明日死のう』と、

四六時中、死ぬことばかりを考える、一種の

【死にたいノイローゼ】

にかかった事があります。

私の場合、このノイローゼが治ったのは、退院して自宅で療養していた時、ある動作中(=夕食の準備に大根を切っていた時)に、正定に入ると共に、正念を取り戻したのが、大きな切っ掛けでありました(その時、正定と正念によって、私の、看護師さんへの怒りは、己自身の無明と執着から来ている事を観じる事ができ、その時、【死にたいノイローゼ】は、瞬時に消え去りました。)

タイの聖者であるアーチャン・マン(遷化)は、荒野で修行している時に病気になり、町に下りて医者にかかろうかと迷った時、

【 『病気・死とは何か?』

『病気・死への恐れとは何か?』

今、これを徹底的に観じて、悟りを開こう! 】

と決意して、荒野に留まって、修行を続けた、と私が持っている、アチャン・マンの自伝書に書かれています。

病気(難病)になってから、己自身の心の中に、正念と正定を確保するのはなかなか難しいので、普段から座禅・瞑想して、正念と正定ができる様になって、<己自身が己自身の観察者>になる訓練が出来ているとよいのですが・・・日本はオウムの事件もあって、知人、友人、出会う人々に、正定と正念を含む<八正道>に関する会話、対話ができる雰囲気にないのが、大変に残念です(現在の日本は、宗教的な話をすると、すぐに 『勧誘された』 と言って、敬遠されてしまいますから)。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>