Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

誰がサタンか?

山上徹也事件から一ヶ月、(旧)統一教会の教えが、少し漏れ聞こえて来ました。         自分の意に沿わない人間は、皆〘サタン〙だそうです。                  これって幼稚じゃないですか?         子供の喧嘩<お前の母ちゃん出べそ>と同じレベル、笑。                 私達の心は、善心もあれば、不善心もあります。主にどれが出てくるかは、その時その時の因と縁と、業(心の癖)によります。       仏陀は、四正勤を言います。良いことは積極的にして、悪い❨心の❩習慣は、少しづつでも、止める様努力する。不善心を減らし、善心を増やす……コツコツ、一生取り組む課題です。                  他人の行いが気に入らないからと言って、〘サタン〙のレッテルを貼りまくるのって、ただの思考停止、宗教者として、余りに安易過ぎませんか?             
 <過剰に念仏を唱え過ぎると、お浄土を行き過ぎる>といいますが、他人に〘サタン〙のレッテル貼つていると、天国を行き過ぎてしまいますよ。サヤレー。iPhone入力。

吉祥経ー2

私は子供の頃から仏教書を読んでいましたが、しかし、では、仏教が真実、自分の人生を導く指針になり得るのかどうか、と言う命題は、なかなか解決できませんでした。          そんな時、大人になってからですが、パーリ経典にある<吉祥経>を読んで、目から鱗といいますか……                  そこには〘人として当たり前に実践しなければならない事〙が書いてありました。       夫は、妻を大切に。夫に愛された妻は、家を守り、夫の財産を増やしなさい。[夫の愛が先、と言う所が、ミソ]。                                       人生で困窮しない様に、手に職をつけなさい。       私は、ここで、笑ってしまいました。     仏陀つて、こんなことまで心配してくれるの?いや、細かいなぁ。 笑。               満月と新月には、お寺に行って、説法を聞いて、瞑想しなさい。その瞑想は、現実逃避の為の瞑想ではなく、夢、幻想から覚める為の瞑想です。         吉祥経を読んで、仏教(仏陀涅槃500年後に出現した大乗仏教ではなく、パーリ原始仏教を指す)は、信頼できるのではないか、と思う様になりました。               経典に書かれている所の、<超能力>を、どの様に位置づけるのか、これも長い間、私を悩ませましたが、この話は、いつかまた。サヤレー。iPhone入力。

翻訳は夏休み

昨日、長年契約しているモデム通信会社に問い合わせしました所、私が契約しているモデムは、低レベルのもので、現在、翻訳作業に使用するため、仕事机の上にスタンバイしている所の、ノートパソコンとの相性が、大変に悪いそうです。相性の良い、高速のモデムに契約変更したいのですが、何しろこの暑さ…身動きできません。翻訳作業は、夏休みを頂き、モデム一新した後、9月以後に再開します。悪しからず。サヤレー。iPhone入力。

分からない

子供の時に、禅宗の僧侶の書いた本(日本語)を読んでいますと、                 〘長年修行してきて、何が分かつたかと言うと、何も分からない事が、分かった〙       とありました。              子供の頭に<???>            点灯です。笑。                 さて、私は原始仏教が好きで、かれこれ40年、タイやミャンマーで仏教(テーラワーダ)を学び、安般念の修行に取り組んで来たわけですが、私もようやく        
〘長年修行してきて、何が分かったかというと、何も分からない事が、分かって〙来ました。禅問答、一丁上がりです。笑。         息を観察する瞑想である所の、安般念をしていると、自分の心の動き、すなわち己の起心動念が、明瞭に捉えられる様になります。そして、起心動念が、上手く捉えられる様になればなるほど、自分の頭の中、妄想(心の癖、考え方の癖)が非常に多いことに気が付きます。                 自分が考えたり、感じたりしている事の99%は、妄想ではないか?と思う位。      ゆえに、自分は、自分の事も、世間の事も、何も分からないのだなぁ、と感慨深いものがあります。                    まぁそうは言っても、毎日生きていかねばなりませんので、日々の生業は、世間的常識に合わせて、活動しますが……(仏教の修行をしているからと言って、喜怒哀楽を殺し、能面の様に生きるのも、また違います)           己の心、己の起心動念は、己を騙す、己を誑かす…これが分かっただけでも、安般念を続けて良かったな、と思います。そういえは、ギリシャのどこかの神殿に、<知らない事を知っている者を、知っている者、と言う>とあるそうです。古今東西、賢者の言うことは、同じなんですね。  サヤレー。iPhoneで入力。

筏の喩

ノートパソコンで翻訳文をupしようとするのですが、上手く行ったり、行かなかったり。    翻訳文のupは、もうしばらくお待ち下さい。     さて、今日はゴータマ仏の教えの中の、    <筏の喩>について。          ゴータマ仏は言います…          〘あなたが、筏に乗って河を渡るとしょう。河を渡り終えたあなたは、乗って来た筏をどうするか?勿論、捨てて行く。これから陸路を行くのに、筏を担いで歩くなど、愚かな人間のやることだ〙と。                 私が、最近思う事。            私は子供の頃から仏教が好きで、故中村元博士の論文に出逢ったこともあつて、タイやミャンマーテーラワーダ原始仏教)を学ぶ幸運に恵まれました。そして、ゴータマ仏の教えた四聖諦、八正道、サマタ・観の修行が、自分の人生に、良好な方向性を与えてくれました。これ以上、私を魅了する人生の指針はないと思っています…が、しかし、それとても、<筏>に過ぎない、のですね。              ゴータマ仏の教えは、どれをとっても、輪廻の苦海を渡る筏としては最高によく出来ているけれど、それも所詮<筏>、用が済んだら捨てるもの。                   私たちは時々、手段と目的が逆転して、倒錯した人生を送ってしまう人を見る事があります。     人生を渡る<筏>は、用が済めば捨てるもの。心に明記しておきたいものです。サヤレー。iPhone入力。