ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー33
上記(No.32での意見)は、邪見の一種である。
識を、恒常的なもの、貯め置かれるもの、主宰的なものとして
認識し、縁生法(縁によって生じる現象)、または縁起の現象
として認めないのは、邪見である。
実際は、識は、ただの縁生の法であり、それには自我はなく、
ただ条件に従って相互に依存しあい、和合して刹那に生じ、
その後に流転・捻転・相続して行くもので、識とは縁に
よって生じる法の一種である。
縁起から見れば、自我と言うものは本質的に存在しえない
ことが分かる。
ティッサ比丘は、自我はあるといい、自我の識が流転する
といい、今・ここに存在するだけでなく、来世にも
継続すると言った。
この種の、話せて、各種の状況において生じる感受を受け入れ、
または、善悪の業報を受け取る自我、これを<識>と(彼は)
言った。
人々は、こういう考え方に慣れてしまい、これが邪見であると
いうことが分からない。
我々は、縁起とは何かを説明し、人々に「空なる自我・無なる自我」
の実相を理解してもらいたいと思うーー識は、自我ではない。
もし、識は存在する、と言うにしても、それは縁生法(縁によって
生じた現象)であり、すなわち、条件によって相互に依存し合い
ながら、現象が続いて行く自然現象に過ぎない。
そこには、何らの、<主体>と呼ばれるものは、ない。
こういう事から、我々は、是非とも、縁起というものを
理解しなければならないのである。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)