[名色の生と滅]
もし、あなたがこの問題を問うならば、三種類の、層の異なる
答えが用意される:
1、名色は一刹那毎に生滅している。しかし、こういう解釈は、
ほぼ誰も知らないし、知りたいとも思わない。または知る必要
がない、とまで(人々は)思う。
我々の名色、心身は、一刹那毎に生滅している・・・これは
アビダルマの解釈である。心は生起するやいなや継続して、
有分心の間で、生、住、滅を繰り返しており、一個の生、住、滅
の流転を、一刹那と言い、それは瞬きする一瞬の間より、短い。
この意味で言えば、名色または「人」は、一刹那毎に生滅して
おり、その速度は速すぎて、口頭で計算できないほどだ。
名色または「人」が一刹那において生滅しているという
言い方は、電流の周波数の解釈と似ている。電流が、連続して
不断に、電路を通過する時、パルスを生じる。これらのパルスは、
一分間のあいだに、千個以上あり、その速度は、識別できない
ほど、速い。
それらがそのように、迅速に発生するため、電球の光がいつも
安定して光っているように見える(訳者補足:電球の光が、実は、
チラチラと明滅しているのは、肉眼では、分からない)。
一念というのも、このように迅速で、それらが速すぎて、また
緊密に連続して発生する為、我々はそれの生と滅を、感じ取る
ことができない。
我々は、緻密な心理的な分析によって初めて、名色または「人」
は、一念の間に、緊密に、連続して、迅速に生滅していて、
それは電流より速い事を、理解することができる。
しかし、この種の生滅は、縁起とは関係が無く、縁起は、
この種の生滅を問題にしている訳では、ない。
一念毎の生と滅は、ただ単純に機械化された心理過程であり、
これは無駄に煩雑なアビダルマの知識であって、縁起とは関係
がない。
アビダルマが用いる<生>の意味は、縁起の中で語られる
<生(jāti)>ではなくて、生起(uppāda)であり、
その意味は「生」または「存在せしめる」で、その過程は
生起、滞留、壊滅、または生、住、滅である。
生起と生は、似ているようで異なるものである。
以上は、名色と「人」に関する、一つの説明の仕方である。
すなわち、迅速で緊密に連続している生、住、滅である。
(つづく)
訳者コメント:う~ん、私、アビダルマ、好きなのですが。
無駄に煩雑と言われても(苦笑)。タイのアーチャン・
チャーも、「アビダルマの試験に合格しなくても、悟る時は
悟るんじゃ」と言っている。確かに心の動きは速すぎて、それ
を微細に、全部見なければ悟れない、という事はないのかも
知れない。まぁ、ここは、個人の好み、という事で(笑)。。
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)