ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー92/92
縁起とは、どのように実践するものなのか?
唯一の答えは、外境と接触する時、(接触を)明らかに
知るべきであって、正念を失うことなく、無明が生じない
ようにし、無明を、苦受となる行、識、名色と六入にまで
発展させないようにする事。
常に本来の状態(本来の面目)(注1)を保持するか、
または未だ生まれ出る事のない「求生」のままにいること。
こうすれば、苦を受ける事がなく、比較的よき状況を
保つことができる。
今、皆さんが正しい智慧を得たことを祝福し、
皆さんが、正しい縁起を理解するよう、希望します。
あなたがレストランでご馳走を食べている時でさえも、
有と生は、もう何度も、何度も生起しているのだという
事を(忘れてはいけない)。
この種の縁起に関する解釈は、タイの仏教徒だけでなく、
全世界から攻撃を受ける可能性がある。
というのも、どの国、どの時代にも、縁起は、世々代々、
続いていくものだと解釈されており、以前、私が「空」を
解説し、アビダルマの評論をしただけで、タイにおいて、
強烈な批判を受けたことがある。
縁起をこのように解説すると、必ずや世間の指弾を受ける
であろうことを私は知っているが、私は仏陀の使者として、
私は私のなすべき仕事をするだけである。
(中略)
以上が、縁起に関する解釈であり、三世の継続と、
継続しない縁起の違いを説明した。
三世を繋ぐ縁起は、無用の長物であり、実践できないもの
であり、汝自身を知らない哲学者たちが、大声で語り合う
話題として、彼らに差し上げたい!
実践可能な縁起こそが、仏陀自ら覚醒し、教えたものだ。
もし、我々が、この種の縁起を受け入れるならば、我々は
苦を止息する事ができ、かつ、常見や辺見と混同する事もない。
縁起の中では、自我や主体というものは、ない。
これこそが円満なる、最も実用的な縁起である。
私は、上記の解説を、仏法に興味を感じる人々に提供する。
そうすれば、人々は更に詳しく、正確に、仏法を学ぶことが
できるから。
(注1)寂静で、縁起の流転が生じていない状態。
仏歴2521年(西暦1978年)浴仏祭にて
(以上にて翻訳完了)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)