南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー52

縁起の説明に用いられる用語の中の<有>と<生>~~

今、我々は、最も重要な部分の検討に入っている。

それは、縁起を説明する時の、用語の問題である。

縁起の説明に用いられる用語の中に含まれる意味は、

法(真理)の言語であり、「法を見た人」「真理をみた人」

が使う言語である。

(縁起の用語は)一般の、仏法を理解しない人々が使う

日常用語で解釈してはならない言語である。

私はすでに、この二つの言語の相違点を説明した。

日常用語とは、仏法を知らない人々が、日常生活の中で

使用する言語であり、縁起の言語は、すなわち、法(真理)

の言語である。

引き続き、私はこのことを、もう少し詳しく述べたいと思う。

もし、我々が日常用語をもって縁起を説明するならば、

多くの混乱、不明瞭な点を引き起こし、縁起に関して、

理解しがたい状況が発生する。

仏陀菩提樹の下で証悟した事を例にとると、彼の覚醒は、

無明を打ち壊した、すなわち、無明の止滅があった。

無明が滅すると行が滅し、行が滅すると識が滅し、識が

滅すると名色が滅する。

そうであるならば、仏陀はなぜその時死ななかったのか?

考えても見てほしい。

仏陀菩提樹の下で徹底的に大悟した時、無明は止滅した。

無明の止滅に従って、造作するエネルギーーー行ーーも

止滅した。

それなのに、なぜ、仏陀菩提樹の下で死亡しなかったのか?

縁起の用語は法の用語なので、「生」と「滅」の、この二つの

文字は、肉体の生、または死を言っているのではない、

ということなのである。(つづく)

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)