縁起の説明に用いられる用語の中の<有>と<生>~~
今、我々は、最も重要な部分の検討に入っている。
それは、縁起を説明する時の、用語の問題である。
縁起の説明に用いられる用語の中に含まれる意味は、
法(真理)の言語であり、「法を見た人」「真理をみた人」
が使う言語である。
(縁起の用語は)一般の、仏法を理解しない人々が使う
日常用語で解釈してはならない言語である。
私はすでに、この二つの言語の相違点を説明した。
日常用語とは、仏法を知らない人々が、日常生活の中で
使用する言語であり、縁起の言語は、すなわち、法(真理)
の言語である。
引き続き、私はこのことを、もう少し詳しく述べたいと思う。
もし、我々が日常用語をもって縁起を説明するならば、
多くの混乱、不明瞭な点を引き起こし、縁起に関して、
理解しがたい状況が発生する。
無明を打ち壊した、すなわち、無明の止滅があった。
無明が滅すると行が滅し、行が滅すると識が滅し、識が
滅すると名色が滅する。
そうであるならば、仏陀はなぜその時死ななかったのか?
考えても見てほしい。
無明の止滅に従って、造作するエネルギーーー行ーーも
止滅した。
縁起の用語は法の用語なので、「生」と「滅」の、この二つの
文字は、肉体の生、または死を言っているのではない、
ということなのである。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)