(我々は)一たび(母胎より)生まれ出たならば、未来、
そして老い、病、死に関連するすべての事柄を心配し、怖れる。
実際は、老い、病、死がまだ来ていないのに、その前に苦を
感じている。というのも、我々は常にそれらを「私が」老いる、
「私が」病む、「私が」死ぬ、と見做しており、これらの状況
が実際に出現した時、苦痛は倍加される。
今、我々は無自覚的に死を恐れ、老いを恐れているが、それは、
我々が「老い」=「私」だと思うからである。
もし「我」「私」がないならば、一切の老い、病、死は何らの
意味をもたなくなる。故に、縁起の一回の流転は、満足しても、
不満足でも、または満足か不満足かを知らなくても、どれか一つ
にでも執着すれば、それがすなわち、苦である。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)