これらの名詞が誤解される時、一回の縁起の流転は、二回の<生>
と関係があると思われるようになった。それは、一つは名色の生
(父の精と母の血の結合)で、一つは来世の生である。
もし、二つの生があるならば、縁起は三世ーー過去世、現在と
来世ーーを貫通するものとして見做され、この時、縁起の
(根本的)解釈とは異なってしまい、一度で完結するべき縁起説
は破壊され、混乱してしまう。
可笑しいのは、二つの「生」があるといいながら、二つの「死」
があるとは言わない事である。というのは、人々は、二度死ぬと
言う事の、本当の意味が分かっていないからである。
<有>と<生>という、この二つの文字は、縁起の中では、
決して、母親の母胎から生まれ出る事を言っているのではなく、
執着(心)の中から生まれ出て、「私」「我」という感覚が発展、
生じる事をいう。
これは、パーリ経典の中にはっきりと記載されていて、証明する
事が出来る。
経典の中に残された仏陀の言葉:「受において喜ぶ者は、すなわち、
取なり」。
その意味は、触が受を生起させる時、それが苦受か、楽受か、不苦
不楽受のどれであっても、その中には「喜(好もしいという思い)」
が存在していて、それを<取>と言うのだ、と。
どのような「喜」も、とりもなおさず「取」である。というのも、
「喜」は執着の拠り所であり、「喜」の有る所、必ず「執して取る」
があるから、である。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)