Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー53

これらの名詞が誤解される時、一回の縁起の流転は、二回の<生>

と関係があると思われるようになった。それは、一つは名色の生

(父の精と母の血の結合)で、一つは来世の生である。

もし、二つの生があるならば、縁起は三世ーー過去世、現在と

来世ーーを貫通するものとして見做され、この時、縁起の

(根本的)解釈とは異なってしまい、一度で完結するべき縁起説

は破壊され、混乱してしまう。

可笑しいのは、二つの「生」があるといいながら、二つの「死」

があるとは言わない事である。というのは、人々は、二度死ぬと

言う事の、本当の意味が分かっていないからである。

<有>と<生>という、この二つの文字は、縁起の中では、

決して、母親の母胎から生まれ出る事を言っているのではなく、

執着(心)の中から生まれ出て、「私」「我」という感覚が発展、

生じる事をいう。

これは、パーリ経典の中にはっきりと記載されていて、証明する

事が出来る。

経典の中に残された仏陀の言葉:「受において喜ぶ者は、すなわち、

取なり」。

その意味は、触が受を生起させる時、それが苦受か、楽受か、不苦

不楽受のどれであっても、その中には「喜(好もしいという思い)」

が存在していて、それを<取>と言うのだ、と。

どのような「喜」も、とりもなおさず「取」である。というのも、

「喜」は執着の拠り所であり、「喜」の有る所、必ず「執して取る」

があるから、である。(つづく)

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)