「喜(好ましいという思い)」が意味するのは、満足の中に
迷う事。仏陀の説では:「『喜』とは取である。我々が、
何かの物事に満足する時、我々はその事柄に執着した、
と言う事を意味する。受の中には必ず『喜』があり、
ゆえに『喜』は取なのである。我々に受がある時、その時
その場に『喜』があり、また、取もある事になる。すなわち、
『取』ある時有あり、有ある時、生あり、生ある時、
老死ある』。これが苦である」。
ここでは、有と生は、受・愛・取から来ている事を言っており、
別に死後、どこかに生まれ変わるのを待つ必要は、ない。
有と生はいつでも生起する。
一日の内に、何度生起しているか、分からないくらいである。
一たび、無明と相応する受がある時、ある種の迷いの心である
「喜」が生じるが、これが執着である。
この次に、引き続いて生起するのが、有と生である。
こういう事から、今、ここにおいて、有と生は生起し、
一日の内にどれ程多く生起しているか、分からないほどだ。
(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)