如何にして第三聖諦を知見するか
しかし、諸行の生起をのみ観照して、それをもって縁起の観照、理解とするのでは足りない。
あなたは、諸行の壊滅と止息を観照する事によって、縁起の観照としなければならない:<注68>
「比庫たちよ、何が苦滅聖諦(Dukkhanirodhaṃ ariyasaccaṃ)であるか?
[1]無明の無余の離と滅(avijjā tveva asesavirāganirodhā)
[2]すなわち、行が滅する(saṅkhāranidodho)
[3]行が滅すると、すなわち、識が滅する
(viññāṇanirodho)
[4]識が滅すると、すなわち、名色が滅する
(nāmarūpanirodho)
[5]名色が滅すると、すなわち、六処が滅する
(saḷāyatananirodho)
[6]六処が滅すると、すなわち、触が滅する
(phassanirodho)
[7]触が滅すると、すなわち、受が滅する
(vedanānirodho)
[8]受が滅すると、すなわち、愛が滅する
(taṇhā nirodho)
[9]愛が滅すると、すなわち、取が滅する
(upādānanirodho)
[10]取が滅すると、すなわち、有が滅する
(bhavanirodho)
[11]有が滅すると、すなわち、生が滅する
(jātinirodho)
[12]生が滅すると、すなわち、老、死、愁、悲、苦、憂、悩が滅する(jarāmaraṇaṃ,sokaparidevadukkhadomanassupāyāsā nirujjhanti)。
かくの如くに、苦蘊全体が滅尽する。
比庫たちよ、これを苦滅聖諦と言う
(Idaṃ vuccati、bhikkhave、dukkhanirodhaṃ ariyasaccaṃ)。」(A.3.62)