この、後者6つの問題について、比丘たちは、最初の問題と同じように、
無知なる回答をした。
仏陀もまた、最初の回答と同じような、回答をした。
すなわち、戒を持さない者は、両足を人に打ち砕かれようとも、
胸を矛で突き刺されようとも、まだ、その方がよい。
というのも、彼らは、ただその一世の間、苦しむだけだから。
しかし、もし、信徒の礼拝を楽しみにしたり、信徒の礼拝を受けたり
すると、これらはすべて、彼らが悪道に生まれ変わる原因、非常に
長い時間、極度に苦しむ原因に、なるからである。
最後に、仏陀は以下の話をして、今回の法話を終了した。
「布施をする信徒に最大の利益をもたらす為に、また、己のサンガに
おける生活を、有益なものにするために、比丘は、三学を学ぶ事に
尽力しなければならない。
己と他人の利益と幸福の為に、比丘は、時々刻々、正念を保ち、
精進しなければならない。」
法話が終わる時、60人の持戒不清浄な比丘は、その場で、口から熱い血
を吐き、60人の、軽い戒に違反した比丘は、即刻還俗し、60人の、
持戒清浄な比丘は、阿羅漢果を証悟した。
(+ )訳者。(つづく)
訳者コメント:私は、三蔵を研究し尽くして、仏教について、
何でも知っているという立場ではないのですが、
業の考え方について一言。
上述の文章でも分かるように、仏陀は常々、〇〇の悪い事をすれば、
△△のような地獄に落ちる、という法話をよくしています。
因縁物語、因果関係でしょうか?
仏教圏でも「誰それは、前世で〇〇をしたから、今世で、
△△の罰を受けている」と、よく言います。
で、過去を悔やまず、現世を注意深く、心楽しく生きなさい、
と教えたはずですが、どうしても、〇〇したから、
△△という苦しみが・・・という、人を脅かすタイプの業理論が
仏教でも、跋扈しています。非学な私には、どういうことなのか、
上手に説明できませんが・・・。
苦しみを背負っている人を、前世の報いと嘲笑するのではなくて、
明日は我が身と自戒し、困っている人には手を差し伸べる、
というのが正解でしょうか。
人は、自分より困窮している人、劣っている(と思う)人を見て、
優越感に浸るのが好きですが、人は見かけはどうあろうと、
本質の部分においては、平等だという事は忘れたくないですね。
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)