パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)~212-12
もし、慈心観(慈梵住)を修行したいのであれば、まず先に、下記の二種類の人間を対象にして、修行してはならないことを、理解しなければならない。
一、異性の人(liṅgavisabhhāga);
二、すでに死んだ人(kālakata-puggala)。
初めて修行を開始する段階では、あなたはまた、下記の人へ、慈愛の修習をしてはならない:
一、好きではない人(appiya-puggala);
二、極めて親愛なる人(atippitasahāyaka);
三、中立の人(あなたはその人に愛も憎もない)(majjhatta-puggala);
四、怨敵(veri-puggala)。
好きでない人とは、あなたに対して有益なことをしない人、またはあなたが気に病んでいる人を言う。怨敵とは、あなたに対して有害なことをする人で、あなたが気に病んでいる人。
初めて(+修行を)始める時、この二種類の人に対して、慈愛を育成するのは非常に難しい。
というのも、(+あなたは)彼らに対して、往々にして、瞋恚の気持ちが生起するからである。
初めて始める段階においては、中立で愛憎のない人(好きでもなく、嫌いでもない人)に対して、慈愛を育成するのも難しい。
極めて親しい人については、あなたが一たび、彼らに何かの問題が発生したのを聞くと、彼らに対して執着しているが故に、彼らの為に泣いたりするかもしれない。というのも、あなたの内心に、心配と悲痛が充満するからである。
こうしたことから、初めて(+修行を)開始する段階においては、この四種類の人々を、慈心観の目標としてはならない。
しかし、ジャーナに到達した後であるならば、あなたは、彼らを修行の目標としてもよく、また、あなたは、彼らへの慈愛を育成できることを、発見するであろう。
たとえ100年修行したとしても、あなたはあなた自身を目標にして、ジャーナに到達することは不可能である。それなのに、なぜ、最初の修行の段階では、己自身を対象にして慈心観を修習するのか?
一番最初の段階において、己自身を慈心観の修行の目標とするのは、己を今後の比較の範例とするからであり、決して近行定に到達するためでは、ない。
あなたの心に「願わくば、私自身が安らかで楽しくありますように」という意念がある時、己自身に対する慈愛を育成した後、あなたは、己をもって、他人と比較することができ、かつ以下のように思うことができる:
すなわち、まさにあなた、己自身が、安らぎと楽しさを得たいと思い、苦を受けたいと願わないように、長寿を願い、死にたくはないと思うように;
その他の衆生もまた同じように、安らぎと楽しさを得たいと思い、苦を受けたいと願わないし、長寿を願い、死にたくはないと思うのである、と。
このように、己自身を比較する範例として、あなたは、一切の衆生の安楽と幸福を願う心を育成する。
あなたは、下記の四種類の慈念を育成することを通して、慈心観を修する:
一、願わくば、私に災難がありませんように
(ahaṁ avero homi);
二、願わくば、私に精神的苦痛がありませんように(abyāpajjo homi);
三、願わくば、私に身体的な苦痛がありませんように(anīgho homi);
四、願わくば、私が健康で楽しくありますように(sukhī attānaṁ pariharāmi)。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(つづく)
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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>