パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~2-12
定力が相当程度の進展を見せたとき、禅の修行者は、往々にして、各種各様の光明を経験することになるが、場合によっては、己の定力が光明に干渉されているように感じる事もある。
これらの光明は、定の修行をしている過程に生じる自然現象であり、それらに構わず、一心にただ、息に専注していれば、それは徐々に習慣化する。習慣化した後なら、二度とその干渉を受けないし、この光明のおかげで、修行者は却って、息をはっきりと覚知することができるようになる。もし、禅の修行者の定力が、相当安定的な程度に到達したならば、一炷の線香の間に、息に少なくとも一時間は、不断に専注する事ができるようになる。このような状態が連続して三日以上持続するならば、通常、禅相は、もう暫くすれば、出現するようになる。
いわゆる「禅相」とは、禅定(=ジャーナ)を修行する時の、心をして専注する対象の事である。
安般念の禅相は、息が変化したものである。
息が白色になるか、または光り輝くとき、それが禅相である;しかし、そのようであっても、その時はまだ、禅相に注意を払ってはならず、引き続き息に専注する事。
というのも、出現したばかりの禅相は、通常は、安定しないからである。
息が光輝く禅相に変化したなら、それは安定していると言える。この時、禅の修行者は、息に専注していた場合、自然と禅相にも専注することになり、その時は、心をして禅相に注意を向けさせ、息に注意を払わなくてよい。
禅相に注意を払うようになったその最初の頃は、禅相はあまり長く維持できないであろう。禅相が暗くなって光が無くなった時、再度息に専注して、定力を育成する。定力が向上すれば、息は、再び光り輝く禅相になり、同時に、心は自動的に禅相を専注するようになるので、その時は、心をして、そのまま禅相に専注するようにさせて、息の事は忘れてよい。
このように何度も何度も練習して、禅相に専注する時間を、益々長く持続できるようにする。この過程において、時には、心は禅相と合一して一つとなり、一つの心にはただ、禅相があるのみで、第二の念が生起する事はない。これが安止定である。次の段階としては、安止定にできるだけ長く入っていられるように、練習する。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-13につづく)
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>