Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~無我(縁起)を知る

先日、ama●●nで、ユング心理学の本を探していました所、世に 『反応しない練習』 という題の啓発本が出版されていて、この本を読んだ人の(否定的な)コメントが公開されていましたので、このコメントから連想した所の、感想を書いてみます(当該の著書は購読しておりませんので、著書への批判ではありません)。

ama●●n上でのコメントでは、

【『反応しない練習』 という啓発本を読んでみたが、この本は、役に立たないどころか、有害である。私は、この本に書いていある通りに、日常生活において、感情的に反応しない様、心がけてみたけれど、感情の無い人間になる様で、恐くなった。】

とありました。

私たちは生きています。

それは身・心がひと時も休む事無く活動している事を意味しますが、そうである以上、何があっても、感情的に反応しない、してはならないと言う、先に<結論ありき>の生き方は、非常に不自然だと思います。

仏教的に言えば、我々は、怒りや悲しみの感情に襲われる時があるけれども、その時、心に湧き上がる怒りや悲しみの、その原因と結果の連鎖反応をよく観察して、心へのネガティブな燃料投下をなるべく早く止める事によって、ストレスを減らし(0にはならない)、結果、自然体で生きるのがよい、という事です。

観察する心、すなわち、覚知する心は、中立的な心なので、

[怒りの心(前心)を、覚知の心(後心)で観察する]

という心理的行為自体が、怒り悲しみの心への、心理的燃料投下を止める作用を内包しています。

覚知する心が育つと、怒りや悲しみの心は、己自身の心の癖(業)が引き起こす、原因と結果の連鎖反応にすぎない事が分かりますが、これを、仏教では、

無我が分かる or 縁起が分かる

といい、無我が分かった上で、その場その場で、自分にとって、最も相応しい態度を取る事を、如理作意(ヨニソ・マナシカーラ)といいます。

入出息念(安般念)の修習をしていると、覚知の心が育ちます。お試しあれ。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>