<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
世俗諦のレベルでいうと、この状態は、必要不可欠な一部分でもある。
というのも、その他の、観察を必要とするものがない為、大念住と大智慧は、変化を生じている<点>に、直接、専注するからである。
この一瞬は楽、次の一瞬は苦;
この一瞬は光明、次の一瞬は少し暗淡。
しかし、あなた方は知らなければならない。
この、楽から苦、または光明から暗闇への転移は、非常に微細であり、その微細さと言えば、わずかに覚知され得る程度である事を。
とはいえ、大念住は、時々刻々、それと共にあるのではあるが。
”心はどうして、これほど色々に変化するのか?”
このポイントにおいて、念住は、他の一切の仕事を放棄して、すべての注意力を、この最も主要な嫌疑に注ぎ、全面的に観察し、それを、心に集中させる。
それらはすべて、相互に関連し合っているのであった。
この最高のレベルにおいては、大念住と大智慧は、同じく極めて微細であり、それらは例外なく、一切に浸透して行った。
この最高のレベルにおいて、最終段階に到達するための自動念と自動慧と、大念住・大智慧とは、異なるものである。
自動念と自動慧は、作意することなく、共に運用されるが、それらは、連続した段階でものごとを観察し、対象をひとつ又ひとつと、断片に切り刻む;
しかし、最高のレベルでは、大念住と大智慧は、同じように作意なく運用するのではあるものの、しかし、それらは同時に、一切に浸透する。
あの時、すなわち、それらが心の焦点の核心を点検している時、あの ”能知” の小さな点を除いて、その他の一切は、すでに点検され、捨棄されていた。
今、ここにおいて、明確になったのは、楽と苦を発する所の根源であり、光と闇ーーこの二つの異なったものが、同じ源から発生している事である。
なぜ、一粒の心に、それほど多くの性質があるのか?
次の瞬間、突然、一瞬間において、法が問題への回答をした。
一瞬ーー本当の一瞬の間!
これを ”法が心中から生起する” と言う。
煩悩が心中から生起するのは、我々のエネルギーを束縛する為である:
法が心中から生起するのは、我々にとっての束縛からの解脱である。
法は、突然、意外にも生起したが、それは心の内において、直接呼びかけるものであった:
闇であっても、光であっても、楽であっても苦であっても、このすべての二元は、無我である!
ああ!
最後において、無我が、これらをば、何の苦労もなく、滅し去ってしまった。
この最後の、疑いのない覚醒は、三つの相の内のどの相であってもよく、それは個人の根機と凛性による。
私は個人として、無我である。
その意味は非常に明確である:
すべてを手放せ!
それらはすべて、無我であるが故に。
(2-6につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>