Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

般若の独り言~rūpakalāpaを見るまでは(3)

<無我と非我について>

昨日、『涅槃証悟の唯一の道』の翻訳が終わりました。

翻訳しながら、<この文章、この表現は重要だな>と思った翻訳文に関しては、《重要必読》と入れておきました(独断と偏見による)。

昨日翻訳した<No.12-2>も《重要必読》だと思います。

仏陀「無我」について、

(A)これは私のものではない、

(B)これは私ではない、

(C)これは私の私(=霊魂?)ではない、

と述べています。

日本の方で、パーリ語の 「na meso attā」 が、日本語に翻訳されて「無我」と表現されているのを見て、<私はいないのだ>と理解する方がまま見受けられます(その為に、無我/非我論争が起きています)。

涅槃を体験した聖者は、本当に私はいない、と実感しているのかも知れませんが(注1)、世俗世間に生きる我々は、とりあえず仏陀の(A)(B)(C)に従って物事を考えた方が、現実に立脚して、問題を解決できると思います。

長い間、中国語の仏教書を翻訳して来ましたが、中国語で<無我>と書かれてあっても、それは、上記(A)(B)(C)の意味で用いられており、<私はいない>という日本語に翻訳可能な文章に、出会ったことがありません。

私は、ヤージュナーバルキヤ、故中村元博士の主張した

<非我>説に賛同します

(注1)涅槃体験者は、言葉では「涅槃してみたら私はいなかった」という表現をするかもしれませんが、涅槃とは<常、楽、無我、浄>です。常で楽で清らか、というのですから、私はいない、とは矛盾します。

<無我>を私はいないのだ、という風に理解すると、虚無に陥り、涅槃とは、矛盾する訳です。インドで仏教が廃れた原因の一つに、<無我>を私はいないと理解して、虚無主義に陥ったからだ、との説有り。誰が輪廻するのか?という設問も同根ですね。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

 

 

 

般若の独り言~『涅槃証悟の唯一の道』翻訳終了です

本日、パオ・セヤドー著『涅槃証悟の唯一の道』の翻訳が終了いたしました(いくつかの表と、尾註の一部は、作表困難の為、割愛しました)。

3か月前までは「もう仏教書の翻訳はお終いにして、これからは修行に専念しよう」と思っていたのですが、『涅槃証悟の唯一の道』を翻訳してみて、これまで理解できなかった部分の理解が進み、当該書籍を翻訳して、本当によかった、と思います。法施、仏法理解の深化と波羅蜜、一石三鳥という所でしょうか?

「禅修指南」(本雅難陀尊者著)は、年が明けてから翻訳を開始します。

520頁の大部、内容は非常に豊富で、広く、また深いです。

2、3年かけて、ゆっくり翻訳しますので、よろしくお願いいたします(その間、ただただ健康でありたいと、老僧尼は願うばかりです)。

当該 WEB ~Sayalay's Dhamma book~ 上で公開されている翻訳文に誤字、脱字を見つけられた方は、<菩提樹文庫>または、当ブログのコメント欄まで、お知らせ下さい。

皆さま、よいお年を

 <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(12-6)(翻訳終了)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

仏陀は《有愛經》(Atthirāga Sutta)の中において、識が如何にして、四食の方式によって、住立するのかを、説明している:

”比丘たちよ。

食を掴む(kabaḷīkāre-āhāre)、

食に触する(phasse āhāre)、

意思を食する(manosañcetanāya āhāre)、

識を食する(viññāṇe āhāre)(+その時)、

貪あり(atthi rāgo)、

喜あり(atthi nandī)、

愛あり(atthi taṇhā)・・・(これらは皆、貪の異名である~lobhasseva nāmāni)、

識(行作識~abhisaṅkhāra-viññāṇaṃ)はすなわち、そこにおいて住立し(patiṭṭhitaṃ)、成長する(virūḷhaṃ)・・・(業を造(ナ)すのを促す)。”

仏陀は次に、一つひとつの状況について解説する:

”識がどこにおいて住立し、成長しようとも、そこには、名色の下生がある(atthi tattha nāmarūpassa avakkanti)。

名色の下生がある所、そこにおいて、行の増長がある(saṅkhārānaṃ vuddhi)。

そして、行の増長のある所、そこには、未来における、再度の有の生起がある

(āyatiṃ punabbhavābhi-nibbatti)。

未来における、再度の有の生起のある所、そこには未来における生、老、死がある

(āyatiṃ jātijarāmaraṇaṃ)。”

ここにおいて、名色は、過去世の業識が齎す所の五蘊すべて、である事が分かるのである。

(尾註<B>~<K>は、省略します)

(翻訳終了)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著(原題「証悟涅槃的唯一之道」) 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(12-5)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

四大種とは、地、水、火、風界の事である;

四大種所造色とは、24所造色を指す。

例えば、五浄色、命根、色、音声、香、味、二種類の性色、空界等である。

受胎の識は、識蘊(viññāṇākkhandha)であり、識の縁(viññāṇa-paccayā)によって生起する名色(nāmarūpa)とはすなわち、受・想・行と色の四蘊の事である。

名色=五蘊すべて:

仏陀は《識經》(Viññāṇa Sutta)の中において、”行の縁によりて識(+あり)” の説明の後に、以下の様に言う:

”比丘たちよ。

諸々の順結の法(saṃyojaniyesu dhammesu)に対して、その楽味を随観し、住する者(assādā-nupassino viharato)は、識の下生がある(viññāṇassa avakkanti hoti)。

識の縁によりて名色(+あり)(viññāṇapaccayā nāmarūpaṃ)、

名色の縁によりて六処(+あり)。”

上に引用したこの経文において、名色とは、五蘊の中の、四種の事であるとしか述べていない。

その前の《名色經》(Nāmarūpa Sutta)の中において、仏陀は、完全に、同様の過程を描写しているが、しかし、ただ ”名色の下生がある”(nāmarūpassa avakkanti hoti)と、言及しているだけである。

ここにおいて、名色とは、過去世の業識が齎す所の、五蘊すべての事を指すのだ、と言えるのである。

(12-6につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著(原題「証悟涅槃的唯一之道」) 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(12-4)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

五取蘊=名色(nāmarūpa):

名色とは、受・想・行蘊と色蘊の事を言う。また、五蘊すべてである、とも言える。

名色=受・想・行・色蘊:

《相応部・分別經》(Vibhaṅga Sutta)の中において、仏陀は、縁起の12の支分を、分析した。

”識の縁によりて名色あり”(viññāṇapaccayā nāmarūpaṃ)の一句について、彼は以下の様に解説して言う:

”比丘たちよ。

名色とは何か?

受(vedanā)、想(saññā)、思(cetanā)、触(phasso)、作意(manasikāro)、これを名(nāmaṃ)という。

四大種(cattāro ca mahābūtā)と四大種所造色(catunnañca mahābhūtānaṃ upādāyarūpaṃ)は、色(rūpaṃ)という。”

義註は解説して、受とは受蘊であり、想は想蘊であり、触、思、作意は行蘊を代表していると言う。というのも、この三種類の心所は、極めて微弱な心中のなかにさえも存在しているが故に(sabbadubbalesupi cittesu)。

複註では、これは眼、耳、鼻、舌、身の五識であると言う。五識の中においては、命と心もまた、住立しているものの(jīvitacittaṭṭhitiyo)、しかし、その作用(kiccaṃ)は思などより明確ではなく(na tathā pākaṭaṃ)、故に、聖典の中においては、後者のみ強調(uddhaṭā)されているのである。

(12-5につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著(原題「証悟涅槃的唯一之道」) 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(12-3)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

次に続く経文においても、色、音声などと、過去、現在、未来においても、この様に照見するべきだと指導している。

聖弟子がこの様に照見する時、眼、色などに厭離を育てる。

仏陀は《眼經》(Cakkhu Sutta)の中において、同じく、以下の様に解説する:

”比丘たちよ。眼において生起し、住立し、再生し、出現するものは、すべて、苦の生起であり、病の住立であり、老、死の出現である。耳・・・すべて、鼻・・・すべて、舌・・・すべて、身・・・すべて、意・・・すべて、老、死の出現である。”

これが六内処である。当該の相応する所の経文の中において、仏陀は同様の方法でもって、六外処、六識、六触、六触生受(=六触による受の生起)、六想、六思、六愛、四界、空界、識界と五蘊について説明しているのである。

また他に、《梵行何求經》(Kimatthiyabrahmacariya Sutta)の中において、仏陀は比丘たちに、一切法に基づいて、外道の出家者たちに苦に関する説明をする様にと教えている:

”賢友よ!眼は苦・・・色・・・眼識・・・眼触・・・眼の縁によって生じる所の受、または楽、または苦、または不苦不楽、それはまた苦である。

これを遍く知るために、仏陀は梵行に住する。”

次に、(+仏陀は)同じ様に、耳、鼻、身と意について、解説する。

(12-4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(原題「証悟涅槃的唯一之道」) 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(12-2)重要必読

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

また、仏陀は《内苦經》(Ajjhattadukkha Sutta)の中において、以下の様に教え導く:

”比丘たちよ。

眼は苦である。

苦であるものは、すなわち、無我である(Taṃ dukkhaṃ tadanattā)。

無我とは、すなわち、

’これは私のものではない(netaṃ dukkhaṃ mama)、

これは私ではない(nesohamasmi)、

これは私の私ではない(na meso attā)。’

この様に、正しい慧でもって、如実に照見しなければならない(evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya daṭṭhabbaṃ)。”

(12-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(原題「証悟涅槃的唯一之道」) 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>