Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

般若の独り言~ラブ

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バラのラブちゃん

ラブ、という名前のバラが咲きました。

茎だけ上に伸びて、株全体は弱弱しかったので、どうしたものかと思案しておりました所、この梅雨空に、一輪大きな花が咲きました。

私がバラに興味を持った切っ掛けは、関東に住んでいた時、ご近所の庭先でみたバラ・・・バラの花びら、表は真紅で、裏が黒・・・「え~、こういうリバーシブルの薔薇って、本当にあるんだ~」と吃驚したものです。

Y盆地に越してきてから、同じバラを探してみましたが、希少なタイプなのでしょう。どんなカタログを見ても、見つける事ができませんでした。

で、偶然見つけた、表が赤、裏が白のラブで、溜飲を下げる事にしました。

上の写真では余り上手く表現できませんでしたが、表が赤、裏が白のリバーシブル、ラブちゃんです。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

般若の独り言~魂を震わす本

私に大きく影響した<魂の本>と言えば、三冊あります。

一冊目はパオ・セヤドーの『智慧の光』(拙訳あり)

その前に読んだ「アビダンマッタサンガハ」(日巴対訳)も衝撃的でしたが、<締め>で言うと、先日翻訳を完成した『禅修指南』(Ven. U Puññānanda著)も、座右において、一生使えそうです。

ちょっとずるいですが、これ三冊を、一纏めにすると・・・、私に大きく影響を与えた本は、後ニ冊あります。

一つは、『邪宗門』(高橋和己)。

その出だしにある:

「人は何をしてもよく、何をしなくともよい」

という言葉。

20代だった私、その本の、一ページ目の最初の一行に、「えっ」と絶句したものです。

私は若い頃、正義感強く(同時に小心者でもありますが)、「世の中の不正は私が糺すのだ!」という強い意気込みを持っていました。

でも、人間存在の原点に帰れば、確かに、人は何をしてもよく、何をしなくともよい訳で(存在意義の多様性)、正義感から他人を斬ろうとしていた私は、目からうろこでした。

もう一冊は、書名は忘れてしまいましたが、日本の禅僧の著書で、その中の一行

「修行をすればするほど、自分は何も分からないことが分かる」

座禅・瞑想すると、思いや感情が色々湧いて来る事によく気が付く様になりますが、その思いや感情が、一体どこから来るのか、実はよく分からない・・・自分が座禅・瞑想する様になって、この禅僧の言う事がよく分かる様になりました。

私たちは、外部に漂う情報(波動の形態になったもの)を眼、耳、鼻、舌、身体で受けとめて、脳で情報を処理し纏めて、ああでもない、こうでもない、と言っている訳ですが、波動という形態の情報をキャッチする時に、すでに事実とはずれていて、脳が情報を処理する時に更にずれる・・・私たちは、五蘊を通して得る情報に、踊らされているだけで、実は、何年生きても、世(出世間的)の真実、真理に行きつかないのではないか?

元々、私たちには、<もの・こと>を確定、断定できるだけの、確固とした<立ち位置>というものは存在しておらず、故に、客観的真実とか真理とかいうものは存在しないのではないか?(アインシュタイン相対性理論)。

ゴータマ仏陀の述べた《五蘊無我》・・・<無我>が分からなければ、一生、外部情報に踊らされて生きる・・・自分では主体的に生きたつもりでも、それはただの《そんなつもり》・・・だった、なんて、虚しすぎますね。

さぁ、今日もコツコツ座禅・瞑想・・・

無常、無我が分かるまで。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

般若の独り言~とりあえず畑

「顕正法蔵」の翻訳を、一週間程、お休みします。

ゴチャゴチャしている精舎の庭を、少し片付けようかな・・・と。

庭の端に、引き抜いた雑草を、そのままそこへ積み上げてしまった区画があり、そこの雑草~枯れて土に戻りつつある~を、きちんと雑草置き場(板囲いで作ってある)に運んで、処理したい(基本は不耕起で、草マルチもやっていますが・・・。無農薬で8年、ミミズがすごいです。)。

そうすると、畳一畳分くらいの空き地が出来るので、ここを菜園にしようかな・・・と。

今は、空いているこちらの場所にトマト3株、あちらに茄子1株と、色とりどりの薔薇の合間に、野菜の苗をバラバラと植えていて・・・シャレている場合ではありませんね(笑)。

弟子に座禅・瞑想の指導をし、ご自身も瞑想される仏陀が、農民に「君は生きていくうえで、生産性のある事は、何一つしないのか」と難詰されて、

「あなたは畑を耕しているのでしょうが、私は心を耕しているのです」と答えたそうですが・・・。

心を耕すのは、言うは易し、歩むは茨の道・・・ここ一週間は、とりあえず、畑、耕します(笑)。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-130

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

8.11.3 一支を捨離する:二支の具備

ここにおいて、捨離の一支は、「悦」(somanasa)、すなわち、心の楽受を捨離する事であるのを理解しなければならない。

実際、同一の一個のジャーナ心路過程の前の速行において、それはすなわち、第四禅の近行定の時であるが、悦はすでに捨棄されている。故に、これを捨離支と言う。

二支を具備するというのは、捨受(=受の捨)と一境性の二者が生起する事をいうのを理解しなければならない。

これはジャーナ四分法(catukkajjhāna)の教法と言う。

8.12 ジャーナ五分法(pañcakajjhāna)

諸々の經は、ジャーナを四種類に分類する。しかし、アビダンマ蔵では、二種類の方法でジャーナを指導するーー人々の知熟する經教四分法と、五分法である。

尋と伺の捨離を分け、同時にそれらを捨離しないため、ジャーナ四分法は、五分法に変化する。

ジャーナ五分法の中において、ジャーナを構成する五種類の禅支は以下の通りである:

1、初禅:尋・伺・喜・楽・一境性。

2、第二禅:伺・喜・楽・一境性。

3、第三禅:喜・楽・一境性。

4、第四禅:楽・一境性。

5、第五禅:不苦不楽受(捨受)、一境性。

五分法に基づくと、初禅を証得した後、引き続き、比較的高レベルのジャーナを証得したいと思う禅修行者は、その禅支を省察する時、尋が粗くて劣である事を発見する。

そして、替えは尋を断じ除こうと尽力し、結果、無尋を証得するが、しかし(+これは)伺と相応する第二禅である。

五分法の第二禅は、四分法には見られないものである。

第二禅を掌握したならば、禅修行者は伺が粗いのを発見し、それを断じ除いたならば、四分法の第二禅と同等の[五分法の]第三禅を証得した事になる。

五分法の第四禅と第五禅は、それぞれ、四分法の第三禅と第四禅と同等である。

この二種類の異なる分類方法は、心一境性の能力に差異のある禅修行者に合わせるために存在する。

この能力の差異は、彼らの、尋と伺を同時に観察する能力の違いであり、または彼らが、同時に尋と伺を捨離する能力の違いを言うのである。

四分法に基づいて修行する禅修行者の進展は比較的速い。というのも、同一の場所から、上に移動する時に、二支を捨離するからである。

しかしながら、二者は、共に、同じ範囲の精神的体験を経験し、最後には、己自身の分法によって、同一の目的地に到達するのである。

ジャーナ五分法が、最初にアビダンマ蔵に出現した後、「論教法」としての特徴を持つ様になった。この様ではあるが、この分法は、諸々の經に明確な根拠を持つものである。

諸々の經は、常々四禅を言うものの、しかし、それらは定を三種類に分けている:有尋有伺の定、無尋有伺の定、無尋無伺の定である。

(《長部》)。

仏陀は聴衆の願望に基づき、または教法の優美さをもって、二種類のジャーナ分法を教導した。

仏陀が天界において、アビダンマを開示した時、ある種の聴衆が禅支を省察する時、ただ尋が鮮明で、粗くて劣であり、伺は寧静であった。

彼らの願望に沿って、仏陀は四個の禅支を教導したが、それが無尋の第二禅であった。

仏陀はすでに、各種の法界を明晰に透視していた為、彼は教法において、優美さを擁していた。

その円満なる智慧によって、彼は教法において、善くした。

こうしたことから、彼は己自身の願望に従って、異なる分法を教導したのである。この分法の中において、初禅は五支、第二禅は四支、第三禅は三支、第四禅は二支あり、第五禅もまた二支ある。

(5-131につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-129

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

8.11.2 もう一つの問題

ここにおいて、以下の様な質問が出るかも知れない:

「もし、これらの受が、近行定において捨離されるならば、なぜに、ここにおいて言及されるのか?」

この様にするのは、それらの理解が簡単に進む様に(+配慮した為である)。

ここにおいて、「無苦無楽」というこれらの語彙で形容された所の、不苦不楽受が、非常に微細であり、非常に知りがたく、識別しがたい(+ことを示したのである。)

牛の放牧者が、暴れ牛に対して、全く近寄りがたく、捉まえる事が出来ない時、彼はすべての牛を一棟の牛小屋に押し込み、その後に、一頭また一頭を外へ出す。そうして彼は言う:

「よし、そいつを私は捉まえたぞ」と。

この様に、暴れ牛もまた捉まえることができる。

同様に、世尊は、五種類の受を、すべて集合させて、それらを理解しやすくしたのである:

というのも、この様に全体的にそれらを顕示したならば、身楽であっても、身苦であっても、または心悦であっても、心憂の法であっても、それらを識別することができるからである:これが不苦不楽受である。

次に、この様に言うのは「不苦不楽心解脱」の縁を顕示する為でもある。

というのも、身苦等々を捨離するのは、それの縁であり、故に以下の様に言う:

「賢友よ、『不苦不楽心解脱の成就』には、四種類の縁がある。ここにおいて、賢友よ、身楽と苦の捨離、及び先の悦と憂の消逝によって、比丘は、無苦無楽の、因捨心を具備した完全なる浄化の正念の第四禅に進入し、安住するのである。」

無苦無楽:

苦が存在しないが故に無苦でる;

楽が存在しないが故に無楽である。

これは、苦と楽の二者に相反する第三番目の受を顕示しており、純粋な無苦無楽の事ではない。

この三番目の「不苦不楽」と呼ばれる受は、また「捨」とも呼ばれる。

その特徴は、喜ばしいか喜ばしくない所の。二者の体験とは相反するもので;

作用は平淡;

現起(現象)は不鮮明な受である。

その近因は、悦(心の楽受)の息滅である事を理解する事。

因捨心を具備した完全なる浄化の正念:

捨を擁して生じる所の正念の清浄。

このジャーナの中の正念は、完全に清浄であり、その清浄は、捨によって生じる。

他の法が原因ではない。

これは、それがなぜ、捨を擁しているが故に生じる正念の清浄というのか、というその理由である。

正念を生じせしめる清浄の捨とは、中捨性捨(tatramajjgattatā)である。

ここにおいて、正念が浄化されるだけでなく、一切の相応する受すべてが浄化される。

尚、この教法は、正念の課題・科目として教えるのである。

捨(中捨性捨)もまた、三種類の比較的低レベルのジャーナの中に存在しているが、しかし、あまり鮮明ではない。

というのも、それは粗くて劣なる禅支によって隠蔽されるが故に。

ちょうど、昼間に、星々は、天空で輝いてはいるものの、しかし、太陽の光によてそれらが見えないのと同じである。

日没の後であれば、星々は見える様になる。

こうしたことから、粗くて劣なる禅支を超越する事を通して、正念は清浄になり、第四禅に到達した時、捨は、単独で突出する事になるのである。

(5-130につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

般若の独り言~無価

<無価>・・・これは<ムカ>と読むのでしょうが、

<価値が無い><無価値>という意味では、ないです。

世の中の物・事には、値段のつけられらない程貴重なものがある=<無価格>という意味です。

この世で最も<無価>なものは何か?

仏法だと、私は思います。

中国語で出版されるほとんどの仏教書(台湾、マレーシア、シンガポール等の漢民族華人在住の諸国で出版される)の奥付には、<仏法無価><売買禁止><(書店)流通禁止>と書かれています。

何故か?

それは、ゴータマ仏陀が何を悟り、何を教え伝えて般涅槃したのか、を考察すれば分かります。

ゴータマ仏陀は、三(四)法印、四聖諦、すなわち、色(身体、物質)は素粒子でできていて、刹那に生・滅するが故に、五蘊(身体と、それに影響されて、成立する精神活動、または相互に影響されて成立する身・心)に、ほぼ存在価値がない、という事を教えたのだと、私は理解しています。

仏にしか教えられない、世にも貴重な教え・・・それは、売買するのが憚れるほどの価値を有しているが故に

<無価>という。世の中には、何千万円、何億円という値段がつくダイヤモンドがありますが、それとは別格、全くもって、時限が違うのですね。

世の中には、まだまだ<無価>なものはあります。

森や山は、いざ、持ち主が売ろうとすれば、二束三文ではあるけれど、森や山の保水力で、周辺の都市の安全が保たれていると思えば、実は、森や山も<無価>的な存在である事が分かるでしょう。

<無価>なる存在に、目を向けない人々の心は、寂しい、わびしいに違いないと、私は思うのです・・・星の王子様も「大切な事は目には見えない」と言ってましたものね。

追記:20年前、「智慧の光」を翻訳するにあたって、

パオ・セヤドーに御著書の著作権について質問しました所、「仏法に著作権はない」とおっしゃっていました

[アチャン・チャーの遺産を管理するアチャン・チャー財団の出版物の、ある一部分のものに、著作権のついているものがあります]。

私の記憶では、私が所蔵する中国語の仏教書で、お金を出して購入したのは「阿含正見」一冊のみです。

著者の釈従信師は、台湾の僧侶ですが、大乗を批判して、お寺を出ていて組織に所属しない為に、致し方なく書店に頼ったのだと、思います(私が、彼の仏教書の愛読者であると知れた後は、彼は台湾から日本の私の自宅に、著書を次から次へと、送付して下さいました。勿論、無料でした。)

「法施」といいまして、仏教書は基本、出版を希望する人または人々が、資金を提供して出版し、有縁の方々に、無料でお布施する形が基本でなければなりません。

仏法は<無価>が故に、値段をつけて売買する事ができないのです。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-128

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

当該の処において、この様に言うのは、(+その場所において)強化される事によって息滅されるからである。

というのも、初禅の発生は、それらが強化されて息滅するのであって、それらの、単なる息滅、ではない。

近行定刹那において発生している事柄は、それらの息滅であり、それらの、強化された息滅、ではない。

故に、多くの転向(多くの意門心路過程)を擁する初禅近行定の時、身苦根はすでに、息滅されているとは言うものの、それは虻、蠅、蚊に接触(+するのが原因で)、または、凸凹の座蒲によって、不適が引き起されて、再度生起するかも知れないが、しかし、安止の中においては、これらは発生する事が無い。

または、身苦根は、すでに近行定の時に、息滅したかも知れないが、しかし、それは完全には息滅していないのである。

というのも、それらはいまだ対立法によって、完全に撃破されてはいないが故に。

安止の時、全身は、喜の拡散によって、楽が充満するが、身体に、楽が充満する人にとって、苦根は完全に息滅している(+と言える)。

というのも、その時、それはすでに対立法によって撃破されているが故に。

多くの転向を擁する、第二近行定の時、その前の心憂根は、すでに息滅されていると言うものの、それは再度生起することができる。

というのも、尋伺を縁とする、身の疲労と、心の混乱が有りさえすれば、それは生起するが故に;

しかしながら、尋伺がない時、それは発生することがない。

もし、それが発生するならば、それは尋、伺の発生があるという事でり、第二禅近行定の時に、尋も伺も、捨離されていない、という事である。

しかし、第二禅においては、この様な様子ではありえない。

というのも、その時には、すでにその因と縁を捨離しているが故に。

同様に、第三禅の近行定の中において、身体が、喜に相応する心を充満させて、勝色(=優れた色、優れた身的要素)を生じている人は、その前にすでに捨離した所の身楽根が、再度、生起する可能性がある。

しかし、第三禅においては、この様ではない。

というのも、第三禅では、身楽の縁である所の喜はすでに、完全に息滅しているが故に。

同様に、第四禅の近行定の中において、その前にすでに捨離した所の悦根(心の楽受)が、再度生起する可能性がある。

というのも、それは(+第三禅に)近く、また、それはいまだ、安止の強い捨によって、正確に鎮伏されてはいないが故に。

しかし、第四禅の中においては、この様ではない。

これが、一つひとつの状況において、なぜ、毎回「無余」という語彙を使うのかという、答えである。たとえば、「すなわち、ここにおいて、すでに生起した苦根は無余に滅尽した」の様に、である。

(5-129につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>