Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。

般若の独り言~終わりの始まり

一番最初、日本に、緬甸(ミャンマー)の瞑想方法が入って来たのは、何時頃の事でしょうか?

書店に『緬甸の瞑想』という本が並んだ時、真っ先に買って読みましたが、確か40年くらい前の事だった、と思います。

それは、自分の身体と心に生起する<感覚><思い>に、次々とラベリングする<ラベリング瞑想法>でした。

私が次に、緬甸の瞑想に出会ったのは、20年前、台湾での事でした。

台北の、在家居士仏教協会主催のパーリ語教室に通っていた私に、一人の若い女性が「おばさん、あなた、テーラワーダがお好きなようですけれど、これ如何ですか?」と言って、パオ・セヤドーの『智慧之光(智慧の光)』を、手渡して下さったのです。

最初の部分を読んで、息が止まるかと思いました。

そこには、名(心理現象)と色(身体、物質)の、無常・苦・無我を観察する目的と方法が、余すところなく、書かれていたからです(『緬甸の瞑想』は、そこまで深い事は書かれてありませんでした)。

人は言います:

『パオ・メソッドは難しすぎる。』

『一体、いつになったら智慧の光(nimitta)を得られるのやら・・・、気が遠くなる。』

『いつ手に入るか分からない nimitta を望むより、いますぐ出来る瞑想法、ラベリング法でもいい、手を動かす手動瞑想法でもいい、息を吸って微笑み・・・というハン師でもいい・・・、なんでもいいじゃないか。』

 

しかし、私はこう思うのです。

パオ・メソッドに取り組んでも、nimitta がでない・・・それならば、他の瞑想法をやってみよう。

それも一つの行き方です、反対はしません。

しかし、あなたが、煩悩に振り回される苦しみ、生・老・病・死の苦しみから抜け出したいのであれば、どうしても<無常・苦・無我>を知らねばなりません。

nimitta(=禅相・智慧の光)を得て、そこから先、あなたが如実に<無常・苦・無我>を観ずる時、それはあなたが、生・老・病・死から抜け出す事、あなたの生・老・病・死の、終りの始まりなのです。

色々な瞑想方法に取り組んだとしても、いつの日か、無常・苦・無我を知る事がないならば、それは人生修行の、単なる過程の一つ、寄り道の一つに過ぎないのです。

パオ・メソッドでは、初心者からみて、nimittaの生起が最初の目標、一里塚になります。

そしてそれは、苦しみの終わりの始まりなのです。

朝夕、安般念を修習しても、nimitta が得られない人も多いかと思いますが、それでも、終わりの始まりの、その始まりの始まりは、始まっているのです。

    <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院/Pañña-adhika Sayalay 般若精舎>

 

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-18

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

ウクナ外道の法

Natthi dhammacaritassa phalaṃ kaly 

āna pā pakaṃ 

Natthi deva paro loko ko tato hi 

idh āgato(ママ)

「大王、学ぶべき、善法とか悪法とかは、ありません。

前生の業が、今生に影響するなどという事も、ありません。すべての有情は、無因によって、生起するのです」

Natthi deva pitaro vā kuto mātā 

kuto pitā 

Natthi ācariyo nāma adantaṃ ko damessati

「いわゆる祖父、祖母等の先輩というものはなく、父母もない。

故に、学ぶべき孝行の仕方、というものもない。

人を導く事のできる教師というのはなく、賢くて、礼儀正しく、他人に教わる必要のない人間は、その人自身が自ずと、できるのです:

賢くない人、礼儀のない人は、どのように教えても、心血の無駄であり、効力のないものなのです。

というのも、一人の人間を変える方法など、ないのであるから。

礼儀の正しい人は、元から正しいのであり、他人から教えを受けて、そうなる訳ではないのです。

世の中に、他人に教えられて、賢くなったり、礼儀正しくなったりするような人間は、いないのです。」

(2-19につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

  

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-17

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

マハーナーラタ伝

一人の、名を英加帝という、よい国王がいた。

国王には一人娘がいたが、名をルチャーと言った。

ルチャーは、非常に美しい王女で、アーナンダの過去生であった。

国王は王女を可愛がり、よく花篭を、ルチャー姫に贈った。

ルチャー姫の随従たちが、その花を花飾りにして、ルチャー姫の身に飾った。

国王はまた、よく美しい絹を王女に贈り、彼女に毎日、異なる服装をするように要求した。

ルチャー王女と国王の関係は、非常によいものであった。

国王は、国家を統治することに長けていて、故に人民は安居し、仕事に励み、国家は安泰であった。

ある年の10月15日、国王と群臣は、新月の美しい夜に、何が人生の楽しみかという議題について、議論をしていた。

その中の一人が、智慧のある修行者を訪ねて、その修行者に、我々の疑問を解いてもらおうではないか、と提案した。

皆が同意したので、国王は、群臣を連れて、当時、有名であったウクナ裸体外道に、会いに行った。

裸体外道が服を着ないのは、己はすでに、何等の煩悩もない修行者であるが故に、心は非常に清浄であり、服を着なくてもよいのだという風に言った。

また、あれら服を必要としている人々は、心が不清浄であるが故に、衣類を必要としているのだ、と主張した。

国王と群臣が、ウクナの所に来たとき、そこにはすでに、多くの求法の信者たちがいた。

国王の番が来た時、国王は恭しくウクナに挨拶をし、以下の問題を問うた:

一、子女は、どのように、父母に対応するべきか?どのようにすれば、よき子女と言えるか?

二、弟子(師弟)は、師長に対して、どのような態度で対応するのが、よい弟子であるか?

三、一家の主は、どのように妻、子に対応するべきか?彼らに対して、どのような態度で対応するのが、よい夫であり、よい父親であるか?

四、国王として、名君でありたいならば、ど

のように大臣に対応し、大臣を指導するべきか?

五、どのような法を修習すれば、衆生は、善趣に往生することができるか?

六、どのような不如法なる事をすると、人は地獄へ落ちるのか?

国王が訊ねたのは、どれも非常によい質問であった。

しかし、この質問は、ウクナにとっては、非常に難しい問題であった・・・というのも、彼はこの種の問題を考えた事がなかったし、この方面の知識もなかったからである。

ウクナは、何を聞かれても、答えることができなかったが、しかし、彼のような、非常に有名な人間は、「私は知らない」などと言えるはずがなく、彼は仕方なく、定命論(=宿命論)でもって答えた。

(2-18につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-16

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

已作業(kaṭattākaṃママ

その他の業の果報が、現に生じていない時、已作業はようやく、果報を生じせしめる。

上述の三種類の業があるとしたならば、この三種類が優先される。

已作業は、業を造(ナ)すその時には、非常に強い願望というものはなく、それはただ、まったく普通の動作であり、行為であったりする。

それは、多くの生において行ってきた、通常の所作であり、行為であり、非常に重い行為ではない。

重業、臨死業または慣行業がない、という状況の下、已作業はようやく、その果報の作用を、発揮する。

(+あなたは)造(ナ)した善業は、みな、果報を生じると、考えてはならない。

一つの果報の成熟には、非常に多くの因と縁の条件が、整わなければならないが故に。

この点に関して、一つの物語を、語って聞かせたいと思う。

それは、一人の国王の邪見についてである。

この国王には一人娘がいた。

この一人娘は、アーナンダの過去生である。

物語の一部分は、已作業と関係がある為、私は、この物語を已作業、また他の関連する所の業と結び付けて、次の機会に、お話ししたいと思う。

(2-17につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

般若の独り言~ソータパナ(預流果聖者)とは何か

世間には、ひとたびソータパナ(預流果聖者)になったならば、どのような悪業を造(ナ)しても、業報を受ける事無く、悪趣に落ちないと豪語する人がいます(最近も日本に、そう豪語する人間がいるという事を、仄聞しました)。

では、ソータパナとは何か?

その定義をここに開陳してみます。

ソータパナには

A、身見がない(五蘊を<己のものだ>と固執する意識から、卒業している)

B、疑がない(三宝への確信、信頼が揺らがない。その実質の内訳は、以下の通り)

(1)三宝への確信、信頼。

(2)戒律(五戒)を守る。

(3)慙(己の悪行に対して、慙・愧と、恥ずかしさを覚える)

(4)愧(悪行の齎す果報に、怖れを感じる)

(5)多聞(仏法を聞くだけではなく、止観の修行もする)

(6)慷慨(よく布施をする)

(7)智慧(四聖諦に関する智慧がある)

C、禁戒取(解脱に向けて、何らかの儀式~苦行・神への犠牲等~が必要であると、固執する事がない)。

 仏陀在世の時、居士であった Visakha は、結婚して家庭を持ち、子孫を多く残しましたが、ソータパナであった彼女は、その行為において、<貪欲だ>と指弾される事はありませんでした。上記、A・B・Cを、守れていた為、だと思われます。

ソータパナになると、死後、四悪趣に行く事はない、と言われます。

とは言え、ソータパナを自認する人は、A・B・C、特に、Bの内の一つに挙げられる<五戒>を守っているかどうか、自問する必要があるようです。

緬甸(ミャンマー)の高僧 Ledī Sayādaw(遷化)は「自分をソータパナだと思う人間は、3年間、五戒を破らないでいられるか、よくよく、己を観察しなさい」と言っています。

<聖者になれば何をやっても許される>というのは、一種の都市伝説、大いなる誤解であることが、分かります。

               (<アビダンマ実用手冊>p71~73引用・参照)

   <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院/Pañña-adhika Sayalay 般若精舎>

 

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-15

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

慣行業(āciṇṇakaṃママ

ある種の業は、臨死業ではなく、普段において薫習されたものである。

不善業で言えば、ある種の人々は、普段、不善なる行為を実行する。

それはたとえば:喧嘩、殺人、偸盗、放火などであるが、(+彼らは)これらの行為から、何らかの利益を、得られるのだと思っている。

常々このような業を造()す人は、臨終の時に、もし、他に更に重い業がなければ、彼らが常々薫習している所の慣行業が、優先的に果報を生じせしめるのである。

善業もまた、同様である。

常々、仏陀をもって所縁の境とし、仏を拝し、斎食の供養、花の供養などを薫習するならば・・・、日常生活の内に、如法で如律な、正当な職業に従事して生命を維持し、一切の行為において、善業を保つ時、これを慣行業と言う。

もし、臨死業があるならば、優先権は、臨死業によって占められるが、もしないならば、慣行業が果報を生じせしめる。

こうしたことから、みなさまは、生活する上で、己自身の身・口・意の三業を守り、戒清浄を持さなければならない。

(+私が)このような話をするのは、みなさまが臨終の時に、恐怖や懼れから遠く離れる事によって、安心して善趣に、往生して頂きたいからである。

どうかみなさまは、私の気持ちを理解して、ご自身で出来る限りの力を尽くして、実践して頂きたいと思う。

我々、ここにいる一群の人々は、過去において、重大な不善業・・・父親殺し、母親殺し、阿羅漢殺しなどの五逆の罪を造したことはないと思われる。

故に、我々が留意しなければならないのは;

臨終に近い臨死業は、果報を生じせしめる、という事実である。

もし、臨死業がないのであれば、普段、薫習している所の慣行業が、果報を生じせしめる。

故に、一人の良き人間として生きる為には、普段から、多くの善業を育成しておかねばならないのである。

(2-16につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」4-5

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(共通するものに関する説明)

文中の、

「私は離れる学処を受持する

(veramaṇīsikkhāpadṃ samādiyāmi)」は、

一切の(学処)に共通する文言であり、故に、(先に)これらの共通する文言について、その義(=意味)を解説する:

文言から言えば「離(veramaṇī)」は、怨敵を圧倒する事、すなわち、怨敵を捨てる事、除去する事、消滅せしめて、怨敵が存在しないようにする事を言う。

または、人が何かの器具を利用して、敵から離れるのを言う。

このことから、veramaṇīの「(ve)」を「(vi)」と読んで、離の意味とする場合もあり、故に、ここにおいては:

「veramaṇīsikkhāpadaṃ(学処から離れる)」と

「viramaṇīsikkhāpadaṃ(学処から離れる)」と

いう二種類の誦法がある(+事が分かる)。

(4-6につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>