Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。

(新)般若の独り言~台湾へいざ

もうすぐ台湾に行きます。

法雨道場で行われるパオのリトリートに参加してきます。

台湾の宿泊瞑想会は、寝袋持参です。

先日、押し入れに仕舞ってあった寝袋を出して来て、付属の袋に詰め込みました。とても小さくなりました(直径10㎝*高さ20cmくらい)。

思い起こせば、この寝袋は、20年前、台湾の登山用品店で買ったものです。

台湾でパーリ語教室に通っていて、パオ・セヤドーの著書『智慧之光』に出会った、あの貴重な日々の中に、台北の山中でマハーシ瞑想会が開催されるのを知って、急遽、寝袋を買いに走ったものです。

暑い台湾で売られていたものの、実はカナダ製、-15度に耐えられる寝袋で、とても助かりました。

マハーシ宿泊瞑想会は、<仏陀世界>という名の、不思議な雰囲気のお寺で行われました。

比丘尼さんが、ある時、ある山の姿を夢で見たのですが、その後に現実の世界で、その同じ姿をした山を発見。

その山には、廃業した遊園地の跡地があったのですが、夢から啓示をうけた比丘尼さんは、その山を買い取って、お寺にしたのだそうです。

大型遊具など、撤去していないものもあって、山全体が、ちょっと悲しげな雰囲気でしたけれど、レストランをそのまま、修行者用食堂に転用したりして、余裕のない比丘尼さんでも、何とか開山できた、という感じでした。

この時、主催者側の在家ボランティアだった女性と、後々、緬甸(ミャンマー)のモーラミャイン、パオ本山で出会うのですから、人生は面白い。

さて、台湾に初めてテラワーダを紹介した、法雨道場での、パオ・リトリート。

その立役者の明法比丘は、急病で遷化されましたが、二代目住職さんが頑張っておられます。

指導の為、はるばる緬甸からおいでになるP尊者、台湾の法友の方々に再会できるのを、楽しみにしています。

追伸:

私は<仏陀世界>での、マハーシ瞑想会を最後に、その後は、パオ式安般念に専念しています。

マハーシ式ラべリングの多用は、安止定にもジャーナにも入れない、と判断したからです。

ジャーナとは、心による直接知覚を保証するものですから、ジャーナに入るとはすなわち、その時の脳は、活動を休止しておらねばなりません。

ラベリングは言葉を使いますので、脳が休まる事はありません。言葉を使って(言葉に頼って)ジャーナに入る、という事は、その定義においても、機能においても、不可能なのです。

(私の個人的な体験として、ラべリングしながらジャーナに入る事は、あります。しかし、これはあくまで、先に安般念による集中力があって、その力の下、ラベリングは、正念正知を促す<切っ掛け>の作用を受け持っているにすぎない、と考えます。詳しくは別の機会に。)

    <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayala 般若精舎>

 

 

 

 

(新)般若の独り言~老いと死の受容

私も来年は古希になります。

思えば遠くへ来たものだ(笑)。

老年期ともなれば、残された歳月の少なさを思って、ふと憂鬱になる事があります。

死ぬのも怖いですよね(長期に寝込むのも困るし、死ぬ瞬間も怖い)。

有情が輪廻するのは、自分なりに分かっているのですが、往生の行先が不透明なのが、不安。

そんな時、

「私は元気だ」とか

「私はまだまだ死なない」とか、

空元気になるのではなくて、不安に寄り添うといいますか、己の心から生まれる不安をそっと認め、受け入れると言いますか・・・。

どうやら不安というのは、自己防衛に長けた脳が生み出す、一種の感情を伴う概念で、それに心が(外塵として接触した時)、感染してしまうようです。

二矢を受けず。

心が、脳の生み出す概念に感染した所までは認めて(第一矢)、心が更に憂鬱になるのは、止める(第二矢)。

できれば、瞬殺。

老いても、心は暗闇に落ち込む事なく、自然体で生きる。

今の私の目標です。

   <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay 般若精舎>

 

(新)般若の独り言~テラワーダと大乗仏教

私は子供の頃から仏教が好きで、大乗経典を手当り次第乱読していたのですが、大乗経典は何を言いたいのか、読んでも読んでもよく分からず、独学の為、教えてくれる師もいませんでしたから、大変に困りました(注1)

仏教に人を救う力があるのかどうか、困惑し、行き詰っていた頃、25歳の時ですが、江戸時代の学者・論客、富永仲基の『出定後語』(大乗加上説/大乗非仏説)を読んで、目から鱗

それ以降は、原始仏教を探し求め、やがて、タイの森林寺院でテラワーダを学ぶようになり、どちらかと言うと、大乗否定派になりました(注2)

しかし、その後に、台湾に勉強に行くようになり、また最近「南伝菩薩道(大仏史)」(中国語版)一書を手に入れて、ちょっと考えが変わりました(深まりました)。

仏陀ご在世の時代、仏陀は主に「阿羅漢になって涅槃する方法」を教えたようですが、ご自身は、己の心身を擲つ利他行を完成されて仏陀になられたのですから、訊ねる人がいれば「仏陀になる方法」も教えられたのだと思います(それが「南伝菩薩道」です)。

台湾では大乗が盛んですが、彼らの合言葉は「大乗こそが仏陀の本懐」です。それは、彼らの心の中にある<仏陀になる為の菩薩道を歩む決意>の、表出でもあります。

「阿羅漢になる為の阿羅漢道」も、「仏陀になる為の菩薩道」も、共に仏陀の教えであるならば、そのどちらも否定する必要はないのでは、ないでしょうか?(大乗、特に密教は、仏陀の説かなかった、または禁止した修行方法を取り入れたりしている為、そのあたりの批判と整理は必要かと思いますが、大乗側も、テラワーダも、批判の為の批判は、そろそろやめた方が賢明でしょう。)

翻って、日本の仏教が、なぜこの様に衰退してしまったのかを考えますと、それは、日本の仏教導入の歴史と関係があるように思います。

日本が仏教を導入したのは、当時の支配階級に奉仕する為であり(貴族の健康と政治・権力の安泰を祈って祈祷する等)、仏教の本質である「個の解放」は無視されました。

それゆえ、現代においても、日本にはサンガがなく、個々の僧侶は、戒も守らず、それぞれが結婚して家庭を営むために、寺院が寺院の機能を果たしておらず、仏陀の教えた阿羅漢道も、菩薩道も見えてきません。

仏陀の教えた法・ダンマとは、死者の為でも権力者の為でもなく、<個人の心の解放の為の、必要不可欠なるエッセンス>の凝縮したもの(注3)という共通認識に立って、日本の仏教界は、まずサンガを形成し(梵行の場の確保)、三法印の旗印の下、阿羅漢道を歩むのか、菩薩道を歩むのか、その方向性を、明確にする必要があるのではないでしょうか(阿羅漢道も菩薩道も、という<二足のわらじ>もアリ、かも知れません。菩薩になる為には、行捨智が必要ですが、これは阿羅漢への道程でもあるからです)。

台湾の仏教界は現況、基本的には大乗菩薩道志向で、若干の者がテラワーダの阿羅漢道を歩んでいる状況ですが、お互いに尊重し合い、トラブルは起きていません。

菩薩道を歩むのがよいか、阿羅漢道を歩むのがよいか。

その選択は、個人の自由だと思います。

考証学的にも、経典判釈的にも、大乗非仏説が確定した今、大乗経典の中に、仏陀の説かなかった観音菩薩阿弥陀如来が出て来るのを、日本の大乗の論師が、どういう方向で整理し、整合性のある説明をするのか、日本の仏教界をどのように再建するのか、一乗説の可否を含め、今後の議論の深まりを、期待しています。

注1:後になって分かりましたが、私自身は、子供心に<無常・苦・無我>三法印の説明を探し求めていたのですが、大乗経典では、三法印の説明は少な目で、また、無我より<空>が強調されて、無我の説明が、より抽象的、哲学的になっている為、子供には歯が立たない。

注2:日本の僧侶は、妻帯し有髪、戒律を守っている様子がなく、故に実質は在家でありながら、法衣を着て<出家僧侶>を名乗る事・・・これは大きな組織的矛盾、存在矛盾であって、この事も大いに、私の大乗不信を募らせました。日本では今<お坊さん便>が話題になっていますが、実質在家なのに「出家の僧侶である」とする僭称行為、絶対的自己矛盾を解決しない限り、民衆の、僧侶への信頼は取り戻せないと思います(他の仏教国では、日本の僧侶は、僧侶として認めていない。仏教国際会議の質問で一番多いのは「なぜ日本の僧侶は結婚しているのか?」です)。

注3:民衆に迎合する為の、占いや予言行為を、ゴータマ仏陀は禁止している事を鑑みると、仏法とは三法印、四聖諦、八聖道、37菩提分、自利利他の精神、覚者としての智慧(縁生・縁滅の自覚)、に尽きると思います。

   <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay 般若精舎>

 

 

 

(新)般若の独り言~人生の目的

本日、MSNの記事を見ていましたら「48歳で課長に成れなかった男の話」が載っていました。

もちろん、この男性(A)が<課長に成りたくて、いかに奮闘したか>というこのWEB記事内容が、彼の人格のすべてを現すわけではありませんから、私が以下に書く事は、彼の人格への、直接的批判ではない事をあらかじめ、お断りしておきます。

Aさんは、大手の有名な会社の営業職。

まじめだけど不器用。

同期はどんどん出世して課長になるのに、自分は課長代理どまり。

しかし、彼なりに努力して、小さな会社に転職した所、上手く行って、いまではアメリカの駐在員で、役職も上がった、メデタシ、メデタシ、という物語。

ここで、Aさんと、Aさんの出世物語を称賛する筆者の共通の価値観は、「出世」にある事。

男なら出世したい、女なら玉の輿に乗りたい。

ステレオタイプ的に言えば、そういう事でしょうか?(最近は自立する女性も増えていますが)。

でも、出世して、部下を持って、給料が上がって・・・そして死んでいく。

出世しようがしまいが、人は、死ぬ。

その時、あなたは、死出の旅路に、何を持って行くのでしょうか?

もし輪廻があるとしたら、また再び、「不器用だけど会社の中で出世したいという価値志向を持つ人物として生まれて・・・」と、人生は延々と続く・・・のではありませんか?

我々は、六根(五根)を通して受け取った情報(外塵)に振り回されながら生き、そしてその事に気が付かずに死んで、また再生する。

私は、会社勤めしながら出世できない苦悩より、こっちの方が、よほど恐ろしい気がするのです。

 

でもまぁ、輪廻の話は鬼門。

これを言うと「それは、人を騙す迷信だ」「輪廻なんて、証明できない話をするな!」と、非難の嵐、輪廻の「ある」「ない」水掛け論が始まりますので。

太陽の下に新しいものなし。

己の人生に、新しい道を切り開くとしたら、無常・苦・無我を知って輪廻から離脱する、だなぁ、私なら。

    (↑ あくまで私個人の趣味であって、他者に強要したり、お誘いしたりするものではありません)。

 <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay 般若精舎>

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-125

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

8-10-3 捨離一支:具備二支

ここにおいて、知っておかねばならない事、それは一支を捨離するとは、喜を捨離する、という事を意味する事である。

しかし、それは、安止定の刹那において、初めて捨離されるのである。

ちょうど、尋と伺が第二禅において、捨離されるが如くに。

こうしたことから、これを「捨離支」と呼ぶ。

また、「具備二支」とは、楽と一境性の両者が同時に生起する事である、という事を理解しなければならない。

こうしたことから、《分別論》の中で、「ジャーナは捨、正念、正知、楽と一境性である」と言われるのであるが、それは、隠喩の形でジャーナそのものと、ジャーナの具備する法について、説明しているのだ、という事を理解しなければならない。

しかしながら、このジャーナは、二つの明るい相の禅支を具備している為に、「その場において、何が二支を具備するジャーナか?それは楽と一境性である。」と言われるのである。

(5-126につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-124

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

詳細な説明:心所依処に依存して生起する所の、一つひとつの心は、多くの(+世)代の微小粒子を生じる事ができるが、これを、心生色と言う。

似相(たとえば安般念)を縁にして、それを目標とするジャーナ心と近行定心もまた、多くの代の心生色を生じることができるが、これらは勝色(=すぐれている色)であり、全身に遍満する。これらの色法によって、禅の修行者は、その名身と相応する所の楽を感じるのである。

ジャーナから出て来た後、彼は楽を感じるが、それはその色身が、すでに、それらの勝色の影響を受けているからである。

覚者、聖者は、(+第三禅を)具備し、(+第三禅に)進入し、第三禅に安住する人を、以下のように言い、讃嘆する:

「捨と正念がある者は、楽において安住する」と。

どうして彼らはこのように讃嘆するのか?

というのも、第三禅は、極めて甘美な、円満な楽を具備しているが、彼はなお、第三禅において、中捨する事ができるからである。

これは、彼が、楽を歓び、好むことによって、それ(=楽に執着する事)に(+心が)向かう事が、ないからである。

というのも、彼は、喜の生起を防止する所の正念を通して、正念を保持しているからであるし、また、彼は、名身でもって、聖者によって、(+聖者が)喜ぶ所の喜びと、(+聖者によって)育成された所の、無染の楽を感受するからである。

(5-125につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-123

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

<訳者より一言> 

本日より、ようやく、パオ・セヤドー著「顕正法蔵」の翻訳に戻ります。

去年の11月2日、<マハーカルナー法友会>解散事件が発生した後、急遽『「偽比丘」の見分け方』『「テラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」』等の翻訳文を差し込んだりした為、「顕正法蔵」の翻訳が、大幅に遅れてしまいました。

「顕正法蔵」の日本語訳を楽しみにされていた方々には、伏してお詫びいたします。

今後は「顕正法蔵」を主に翻訳し、時々「テラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」の翻訳を挟みます。

これより以降、一体何を翻訳しているのか、何が本命なのか、読者の方々が戸惑われないよう、あれやこれやに、手を出さないように気を付けます。

「顕正法蔵」日本語訳、興味のある方は、どうぞご閲覧下さい。

 

「顕正法蔵」P119~

その身に楽を感じる:

ここにおいて、第三禅に証入した人は、楽受に関心を持つ事はない。

しかし、彼は名と身に相応する楽を、感じる事はある;

ジャーナから出てきた後、彼もまた楽を感じる事はある。というのも、その色身は、すで名身と相応する所の楽によって生じた極其勝色(=きわめてすぐれた色身)の影響を受けるからである。

(5-124につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>