wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

☆「掌中の葉」(翻訳文)4-12

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

簡潔に言えば、外見だけで、己自身の性行を判断してはならない。更に良い方法は、一人の他心通を擁する教師を探し、見つける事である。

もし、他心通を擁する教師を見つける事ができないのならば、あなたを善くて巧みな方法で指導できる教師も、また、非常に良い。

このようなことから、以下の条件を具備する教師は、非常に貴重である。

(一)他心通の獲得

ただ仏陀だけが、他心通に関して、全面的に把握することができた。シャーリプトラ尊者は、他心通で多くの人を助けたけれども、しかし、ある種の人々に関しては、彼でさえも、全面的に掌握することはできなかった。

こうしたことから、我々は仏陀の般涅槃の後に、他心通に関して、全面的に把握している教師を見つける事を、期待する事はできない。

言い換えれば、我々は仏陀の般涅槃の後、完全に、あなたの、あらゆる因と縁を知る教師を見つけ出す事はできない、という事である。

もし、あなたが、部分的に他心通を擁する教師を見つける事ができたならば、あなたは幸運であると、知るべきである。

実際、あなた自身でさえも、あなた自身を、完全に理解できないのである。

教師は、あなたの性格を判断する際に、たまには小さな間違いを犯すかもしれないが、あなたは千々万々、そのことを理由に、彼への信頼を失ってはならない。

もし、あなたが部分的に他心通を擁する教師を見つけることが出来て、かつ、教師もあなたを指導したいと考えるならば、あなたは教師に対して、信心(=信頼)を持つべきである。

このようにして後、彼の指導の下で、あなたは涅槃を証悟するまで、修行する事ができるのである。(4-13につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)4-11

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(2)瞋行者、覚行者

歩く=つま先を使って、地面を掘るようにして歩く。彼の足は、急ぎ地面を踏み、急ぎ足を上げ、その足跡は尾が長い(足の後ろ側が長い)。

立つ・座る=頑固な姿勢で、立つか、または座る。

眠る=ベッド・メイキングを急いでする。身体をベッドに投げると、眉間に皺を寄せて横になる。彼に起きるように言うと、急いで起き上がり、誰かに怒られたかの如くに、返事をする。

仕事=緊張しながら、不円満に仕事をする。

食事=堅いもの、酸っぱい物が好き。食事の時、口いっぱいに頬張る。おいしい食べ物がない時、瞋り、怒る。

見る=小さな不如意を見たとき、すぐに嫌になって長くは見ない。ごく小さな過失を見てさえも、瞋恚の煩悩が生じる。真実に徳行がある時でも、取り立てて、気にしない。ある場所から離れる時、離れたがっている様子を見せ、何の未練もなく離れる。

(3)痴行者、尋行者

歩く=混乱した足取りで歩く。彼の足は驚愕した者のように降ろされ、驚愕した者のように、持ち上げられる。

彼の足跡は、急速に圧力を加えたた感じになる(前後ともに長く伸びる)。

立つ・座る=混乱した姿勢で立つか、または座る。

眠る=計画的にベッド・メイキングができない。多くの場合、身体は散乱しており、うつ伏せに寝る。彼に起きる様に言うと、「あ」という声を出してから、ゆっくり起き上がる。

仕事=ゆっくりとしており、乱雑である。

食事=一定した好き嫌いはない。食事の時、食べ物を小さな団子状にして口に入れるが、団子は形が整わない。食べ残しを、食事用の皿・器に入れる。口のまわりを汚す。心内も散乱しており、あれこれ、考え事をしながら、食事をする。★

 

一般的に、異なる性行の者は、異なる威儀(行為、歩く、座る、横臥等)を有する。しかしながら、これも絶対的なものではない。というのも、一人の瞋行者は、また貪行者の威儀を、顕すこともある。

雑行者に関して言えば、彼には多種多様な行相がある。

義疏はまた言う:「他心通を得た教師は、弟子の性行を知ることができ、かつ、彼に対して、適切な業処を教えることができる。その他の教師は、種々の方式で弟子に質問をし、会話の中から、弟子の性行を判別する。」

《清浄道論・第三章・第96段》

(4-12につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)4-9

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

(三)尋と痴

いまだ生起しない善法を生起させるために、痴行者は、精進の方法を種々、画策する。

しかし、これらの方法は、彼の成功を助けないだけでなく、却って、彼の成功の障礙になる。

言い換えれば、痴行者の愚痴(=愚かで無知な様)は、彼が善念でもって、己を変容させようと思っていても、最後には、反作用しか受け取ることができないのである。

尋行者も同じであって、彼は一切の事物に対して、理解と思惟を試みるが、しかし、ある種の事柄は、理解されることがない。

彼は色々と思惟して、普通では考えられない種々の事柄を理解しようとするが、その解を得ることができず、却って困惑するのである。

邪見を擁する人も、痴行者の仲間に分類する。

尋行者と痴行者の区別:

尋行者

1、各種の、混乱した思惟を持つ。

たとえば、何かの事柄に遭遇した後、彼は脳内において、この事柄に関して、反復して思惟するが、それが過剰な事によって、頭が混乱する。

2、色々な、混乱した思惟を擁するため、確定・決定ができない。

痴行者

1、掉挙である。たとえば、過去において、なすべきであったが、なさなかった事柄、なしてはいけないのに、なした事柄を、常に思い出す。

2、洞察できないので、動揺する。

◆結論:

(一)信行者は貪行者と同分であり、覚行者と瞋行者は同分であり、尋行者と痴行者は同分である。

(二)修行者は、性行の同分、または区分に関しての課題について、重視しなければならない。というのも、これは、修行者にとって、己自身で、己の修行を点検する、良い基準・根拠となるからである。

(4-10につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)4-10

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

性行の識別方法

  威儀与作業(威儀と行い)、

  而食及見等(食事や、見る時など)、

  於法之現起(法において顕になるが故に)、

  弁知於諸行(諸行において識別を得る)。

《清浄道論・第三章・第87段》

《清浄道論》の記載によると、性行(=性格と行い)の識別方法は、幾つかの項目に分けることができる。

また、[《清浄道論》「六種類の性行」における瞋行者の研究 ] を整理すると、以下のようになる。

(訳者注:

からまでの日本語訳は、原文では表ですが、hatenaでは表が作成できませんので、箇条書きとします。)

★外貌の紹介:

(1)貪行者・信行者

歩く=自然な歩調及び優美な歩き方で歩く。ゆっくりと足をおろし、しっかりと地面を踏んで、端正に足を上げ、足跡は曲がっている(足ふまずが地面につかない、の意)。

立つ・座る=人が見て喜ばしく思うような、優美な姿勢で立つ、または座る。

寝る=急がず、慌てず、ベッド・メイキングを行い、ゆっくりと横になる。人が見て喜ばしく思うような姿勢と手足の様子をして、眠る。彼を起そうとしても、急いで起き上がることをしない。ゆっくりと返事をして、その様子は、(+起こされる事に)何か疑問を持っているように見える。

仕事=急がないけれど、ゆっくり過ぎる事もなく、人を喜ばしくさせるような様子で、円満に仕事をする。

食事=脂肪と甘いものが好き。食事をする時、一口分より小さく丸めて食べる。味わう為に細かく噛んで、急がず食する。何かおいしい物に出会うと、喜悦が生じる。

見る=小さな喜ばしい事柄を見てさえも、驚愕して、長く見続ける。たとえ小さな徳行であっても、執着する;しかし、実際に、大きな過失を犯した時は、それを重視しない。どこかの土地を離れる時、恋々と回顧して、離れがたい。(4-11につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>まで。

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

是誰庵のひとやすみ~「掌中の葉」が続きます

何日か前の<是誰庵のひとやすみ>でお知らせ致しました通り、年末までに「掌中の葉」の翻訳を終わらせたいので、暫くは「掌中の葉」ばかりが続きます(翻訳は割と順調に進んでいて、10月くらいで完了するかも、です)。

パオ・セヤドーの「顕正法蔵」を楽しみにされている方、もう少しご辛抱下さい。

今「自然菜園」という本を読んでいます。

若い頃に、福岡正信さんの本を読んで影響されて、自然農法がよいと思っているのですが、今改めて「自然菜園」を読んで、びっくり。

自然農法・不耕起とは、何もしないのかと思っていたのですが、畑でなかった所を畑にするには、それ相当の処理をしなければならないそうです。

具体的には、まずは、雑草を根っこから取り除き(エッ、不耕起じゃなかったの?~汗)、草木灰、カキガラ石灰、もみがら燻炭などを鋤きこみ、その処理をした後に畝立て、そして、その最初の年に植えらえれる作物は、ヒエ、アワ、キビなどだそうで・・・。

まずは、イネ科の作物で畝の地ならをした後、初めて不耕起で色々な野菜が収穫できるようになる、という手順だそうです。

私、引っ越してきて、庭にいきなりトマトやナス植えてますけど、上手くいかないハズですわ。

福岡さんが空の上で、カラカラと笑っているね。

このバカもんが。

☆「掌中の葉」(翻訳文)4-8

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(二)覚と瞋

この両者は相似ている。

双方とも、所縁に対して、不滋潤(=潤わない事、増長しない事)で、不執着であるという現象を顕す。

覚行者は、善法の中において、所縁に対し、不滋潤であり、不執着である。

瞋行者は、不善法において、所縁に対し、不滋潤であり、不執着である。

覚行者と瞋行者の違い:

覚行者

1、ただひたすら真の過失を追求する。

たとえば:ある人を、好ましく思ってはいないのではあるが、しかし、事実に基づいて、真理を検証する態度を保ち、その人が、大衆にとって、利益ある善事をなしたならば、あなたは、この善行に対して、称賛の態度を顕す。

2、諸行を回避する態度をとる。

たとえば、不利な事柄が発生した時、覚行者は、出来事は、常に順風満帆ではありえず、不利な事柄は必ずや発生すること、これは諸々の因縁の禍である事を、知っている。

瞋行者

1、真実ではない過失だけを追求する。

たとえば:ある人を好ましくないと、思っているとして、あなたは彼に対する偏見を持ち、その為に、彼が何をしても、たとえその行為が、善意からであっても、あなたはそれを、良くない行為だと言って、批判する。

2、有情を回避する態度をとる。

たとえば、不利な事柄が発生すると、瞋行者は、他人を責める。(4-9につづく)

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☆「掌中の葉」(翻訳文)4-7

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

この時、ヴァッカリは、純粋な信心と、貪念の雑染した信念の違いを、理解した。

彼は、勇敢にも、仏陀への執着を放下し、その為、油然として、堅固で移ろわない、清かな信心が生じた。この偈を聞き終えた後即刻、彼は阿羅漢果を証悟した。

この物語から、我々は、貴重な教訓を得ることができる。

俗にいう:「善と悪は紙一重」「始めは小さな差でも、終わりには大きな差になる」。

善き因縁の導きの下、貪念は、信心に変容する事ができる;悪い因縁の導きの下、信心は、貪念に変容する事がある。

両者は、表面的には、それほど差がないけれども、しかしながら、一人の良き教師は、あなたがどのような時に、信心具足であり、どのような時に、無自覚的に貪念に傾いてしまうかを、非常に明確に、指摘することができる。

故に、修行者は、以下において討論する所の、性行に関する、同分と区分に関する陳述について、重視をしなければならない。

これは、修行者が自ら、己自身を点検する時の、一つの良き基準となるものである。

(一)信と貪

この両者は、同分である。

というのも、それらは情熱的であり、かつ、苛酷な表現を好まないが故に。

信行者と貪行者の差:

信行者

1、高尚な戒徳などを追求する。たとえば:己の浄化のために、持戒し、禅の修行をする。

2、利益につながるものは、あきらめない。たとえば:浄化の過程において、煩悩と対抗するのが非常に苦痛であっても、彼はなお、成功するまで、(+修行を)堅持し続ける。

貪行者

1、世間的な名利を追求する。たとえば:名声を得たいという思いで、禅の修行をする。

2、有害な事柄であっても、放棄しない。たとえば:過度に修行して、心身ともにトラブルが生じているのに、何が何でもやり通そうとする。

成功するまで、あきらめない。(4-8につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>