Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

翻訳『親知実見』#27-7

苦聖諦とはすなわち、五取蘊の事であり、苦集聖諦とはすなわち、縁起であり、この二者は、合わせて諸行の法(saṅkhāra)と言い、それらは観智の所縁である。

異なる観智の段階において、あなたは、これらの行法を無常(anicca)・苦(dukkha)・無我(anatta)として観照しなければならない。

それらを了知する事も、通達する事もないならば、あなたは、如何にしてそれらを無常として観照するのか?

こういう事であるが故に、我々は、vipassanā について、系統的に指導する必要があるのである。

究極色法、すなわち、色取蘊を知見する為に、あなたは、四界差別を、物質現象は皆「色聚」

(rūpa-kalāpa)の微細な粒子によって構成されている事を見ることができるまで、修習しなければならない。

あなたは、それら微細な粒子の中の四界<注119>を見る事ができなければならないし、また、六処及びそれぞれの所縁<注120>もまた見なければならない。

この様な方式で色法を識別しないのであれば、あなたは、名法、すなわち、四種類の名取蘊を識別する事は出来ない。

故に、我々は、順序を踏み、段階に応じて、vipassanā を教導するのである

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

翻訳『親知実見』#27-6

上記に含まれる意味とは、すなわち、禅修行者は、異なる段階の観智を通り、かつ縁起を了知しないのであれば、輪廻を解脱する事はできない、という事である。

仏陀は《増支部・外道依処等経》において、以下の様に言う:

「比庫たちよ。

何が苦集聖諦(dukkhasamudayaṃariyasaccaṃ)であるか?

[1]無明(avijjā)の縁によりて、行(saṅkhāra)(があり)

[2]行(saṅkhāra)の縁によりて識(viññāṇa)、

[3]識の縁によりて名色(ñāmarūpa)、

[4]名色の縁によりて六処(saḷāyatana)、

[5]六処の縁によりて触(phasso)、

[6]触の縁によりて受(vedanā)、

[7]受の縁によりて愛(taṇhā)、

[8]愛の縁によりて取(upādāna)、

[9]取の縁によりて有(bhavo)、

[10]有の縁によりて生(jāti)、

[11]生の縁によりて

[12]老、死(jarāmaraṇa)、愁(soka)、悲(parideva)、苦(dukkha)、憂(domanassa)、悩(upāyāsa)が生起する。

この様に、苦蘊の全体が生起する。

比庫たちよ、これを苦集聖諦と言う。」(A . 3.62)

上記の項目は、縁起と呼ぶ。

仏陀は、縁起はすなわち、苦集聖諦である、という。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

翻訳『親知実見』Knowing and Seeing#27-5

これらの五取蘊はみな、苦諦法(dukkhasaccadhammā)、すなわち、苦聖諦の法である。それらに対して、この様に理解しなければならない。

仏陀は《長部・大因縁經》において、以下の様に言う:

「アーナンダ、この縁起というものは奥が深く、奥の深い相を具有している。

アーナンダ、もし、この法に対して随覚せず、通達しないのであれば、この人は、絡まった糸の玉の様に、穀喇鳥の巣の糸の様に、萱草、灯心草の様に、苦界、悪趣、堕処、輪廻を超越する事はできない」(D . 2.95;S. 2.60)。

上記の經文に関して、義註は以下の様に解説する:

「この[有輪]は、実に極めて深く、立脚の処なく、[同一的な理等の]種々の理の密林は、超越しがたい。

殊勝な定石で磨いた智慧の剣でもって有輪を切り開くのでなければ、どの様な人間であっても、雷電の輪の如くに、恒常に圧迫する所の輪廻の畏怖、恐怖を超越する事が出来ない、たとえ夢の中であってさえも[不可能である]!」(Vbh.A. 242;Vm。661)。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

翻訳『親知実見』#27-4

問2-2:第四禅に到達した後、なぜ、我々は、直接五蘊観照して、それらの無常・苦・無我の本質を透視し、涅槃を証悟しようとしないのか?

涅槃を証悟する前、我々はなぜ、32身分、白骨想、白遍、四界差別、色業処、名業処、縁起と観禅を修行しなければならないのか?

答2-2:仏陀は、三種類の人間に五蘊に関する修観の方法を指導した:それは利慧者、名法の観智がいまだ明晰でない者、簡略法が好きな修観者、である。

五蘊とは何か?

五蘊と名色の間には、どの様な違いがあるのか?

あなたはどの様に答えますか?

二番目の問題に解答する前に、我々は、先に名色と五蘊について、説明をしたいと思う。

四種類の勝義諦(paramattha sacca)がある:

心(citta)、心所(cetasika)、色(rūpa)と涅槃(nibbāna)である。

第四番目の勝義諦ーー涅槃をを証悟する為に、我々は、その他の三者の無常・苦・無我の本質を見る必要がある、すなわち、以下のものを見なければならない:<注117>

1)89種類の心(viññāṇa)

2)52種類の心所(cetasika)

3)28種類の色(rūpa<注118>

89種類の心は、識蘊(viññāṇakkhandha)と言う。52種類の心所に関しては、

受は受蘊(vedanākkhandha)、

想は想蘊(saṅkhārakkhandha)、

その他残りの、50心所は行蘊(saṅkhārakkhandha)である。

ある時には、心と心所は、合わせて「名」(nāma)と呼ばれ、ある時には、四つの蘊に細分される:受蘊、想蘊、行蘊と識蘊である。

この四蘊は、総合して名蘊(nāmakkhandha)と呼ばれる;

色蘊(rūpakkhandha)は28種類の色の事である。

心、心所と色を合わせて名色と言う(nāmarūpa)が、ある時には、また、五蘊とも言う:色、受、想、行、識である。それらの因は、名色にすぎない。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

翻訳『親知実見』#27-3

精進が強すぎる時、それは、心をして躁動不安にならしめて、その結果、その他の諸々の根が弱くなり、かつ、適切に運用するのが難しくなる。念が弱くなる時、あなたは、何事も実践できなくなる、というのも、あなたは呼吸に専注する事が出来ないし、呼吸を識別する為の精進は減退して、消失してしまう事もあり、同時にまた、信心(=確信)が失われてしまう。

あなた今、まさに止を修行している。

止禅に関しては、強くて力のある定はよいものである。しかし、過度の定は、怠惰を引き起こす。怠惰が原因で、その他の諸々の根もまた弱くなってしまい、結果、適切な運用ができなくなる。

初心者の段階においては、智慧はまだ鈍くて劣っていて、ただ、自然の呼吸を知ることができるだけである。

故に、今現在、止禅を修習する最中の初心者にとっては、ただ、明晰に呼吸を知覚できるだけで充分である。

取相または似相が出現したならば、智慧が、取相または似相を覚知する。

また、多すぎる知識、学問(を擁する事)は、良い事ではない、というのも、あなたは、討論や批評ばかりする様になるが故に。

もし、禅修行者が、入出息念に対して、多くの討論や批評をする時、我々は、彼の慧根は過度であると言い、この場合もまた、その他の諸々の根を弱くしてしまい、かつ、適切に運用する事ができなくなってしまう。

こういうことから、初心者にとって、5根のバランスがそれほど重要ではないとは言っても、しかし、バランスを保持できる事は良い事である。

如何にしてバランスを保つのか?

我々は、強くて力のある正念でもって、明晰に呼吸を覚知し、かつ、大いなる確信をって、呼吸に専注しなければならない。

<翻訳文責:緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

翻訳『親知実見』#27-2

初心者は、強くて力のある五根を育成する様チャレンジするべきである:

彼らの、入出息念への信念は、充分に強くあるべきであり、呼吸を明晰に覚知する為の努力は、充分に強くあるべきであり、呼吸への専念は、充分に強くあるべきであり、呼吸への専注もまた強くあるべきであって、(それらを通して)呼吸を明晰に了知する必要がある。

彼らは、五根が強くなる様にチャレンジするべきであり、また同時にそれらがバランスする様にチャレンジするべきである。

もし、ある一つの根だけが強すぎる時、その他の、諸々の根は適切に運用ができなくなる。

例えば:もし、信が強すぎる時、(心が)感動、感激するが、この事は、精進根をして、相応する名法を呼吸において、維持せしめることができなくなる事を意味する;

念は、呼吸において建立する事ができず;

定根もまた同様であり、深く呼吸に専注する事が出来ないし;

慧もまた、明晰に呼吸を覚知することができない。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>