wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

是誰庵のひとやすみ~パイナップルリリー

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     ↑ <パイナップル・リリー>の蕾

一か月ほど前に、ホームセンターで<パイナップル・リリー>の球根が売られていました。

以前、我が家に送られてきた種苗会社のパンフレットで見たことがあって、「あ、これこれ!」という感じで、お買い上げ。

その球根を鉢に埋めておいたら、芽が出て葉が出て・・・私、園芸ヘタレなので、花は咲かなくても、葉っぱだけでも楽しめれば、な~んて思っていたのですが、今朝、葉っぱの芯の方を覗いてみて、あら嬉し!パイナップル状のお花の赤ちゃんが!!

青色のキキョウも涼しげに、次から次へと咲いてくれているし、ヴォサノバ(枝垂れベゴニア)も三年目の今年も無事茎を伸ばして、赤い花を咲かせてくれたし、庭のカサブランカは一茎に12、3輪の蕾を付けて、むせかえるような香りを放ってくれているし・・・<緑の手>を持っていた祖母には遠く及ばないけれど、私も、少しずつでいいので、お花と会話ができるようになりたい。

 

パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」(翻訳文)5-74

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

8-7 定に住することを重視すべき

では、引き続き、安般念についての解説を続ける。

あなたが、安般念似相の初禅に専注することに到達し始めた時、あなたは常に入定し、不断に、定に住する時間を延ばすようにするべきであって、その禅支を省察してはならない。

というのも、常に禅支の省察をすると、初禅の禅支は成熟することがなく、かつ軟弱なままになり、そのため、それらは更に高度な成就に繋がる因・縁になることができず、あなたの定力もまた、減退してしまう。

あなたが、いまだしっかりと初禅を掌握していない状況のまま、よく熟知していない高レベルのジャーナの修習に打ち込むと、あなたは初禅を失うだけでなく、第二禅に到達することもできない。故に、世尊は言う:

(5-75につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」(翻訳文)5-73

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

8-6-10 定育成の決意

「定育成の決意」とは、定の境地を育成すると決意することである。

その意味内容とは:

定を重視し、定に傾向する事である。

(+座禅・瞑想における)一回毎の姿勢の内に、禅相に専注する、ということはすなわち、一種の意志力である。

あなたにこのような意志の力があり、意志の力を擁するあなたが、禅の修行をするならば、あなたは成功することができる。

もし、あなたが不断に継続して修行するならば、久しからずして、あなたの心は、完全に禅相の中に沈み込むことができる。

これが安止(+定)で、またはジャーナとも言う。

最初の何度かの安止(+定)は、長らく持続することができないとしても、あなたそれを放棄してはならない。あなたは不断に修行しなければならない。

もしも、あなたが強くて力のある正知と正念でもって修行に精進するならば、あなたの禅相に専注する定力は、非常に早くに、一定の時間持続できるようになるものである。

これが、10種類の、如何にして、安止(+定)を育成するのかという、善くて巧みな(+方法であり)、また如何にして五根と七覚支をバランスするのか(+という説明である)。

(5-74につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-16

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

学生

今日、学生たちが教師を探し求める時、彼らは完全無欠な教師を追い求める傾向がある。しかしながら、彼らは完全無欠な学生だけが、完全無欠な教師得る資格がある事を、どれほど理解しているだろうか?

良師を得たいと思うならば、まずは己の徳行を育成する必要がある。もし、学生の側が、よい素質を具備していないならば、たとえ完全無欠な教師が彼の目の前に現れても、彼はそれを認識することができないし、良師の教えを受けるという幸福を、享受する事はできないのである。

通常の場合、学生は教師に対する要求が多すぎる。彼らは、教師が彼らを変化させ、人としてのレベルを向上さえてもらうことに期待しているが、しかし、己自身の偏見や執着を手放そうとはしない。

彼らは、快速に成果を得ることを望むが、しかし、努力という名の代価を、払おうとはしない。

彼らは完璧な教師を得ようと希望するが、彼ら自身は、如何なものであろうか?

彼らは三宝や教師に対して、どれほどの尊敬と努力を払っているだろうか?

彼らは己の義務を、履行しているだろうか?

彼らは、教師が食べ物を選んでいるのを見る時、彼らは即刻、彼の教師も彼らと同じく好き嫌いをするのだと断定する。

このことに関して、《清浄道論》と註疏では、以下のような物語を紹介している:

大昔、ある時、一人の長老が、一人の年若い比丘と村に托鉢に行った。

最初の家まで来て、彼らは各自、一匙づつの熱いおかゆを貰った。当時、長老は胃の中の風のせいで、胃が非常に痛かったので、彼は心の中で思った:

「この粥は私にとって利益がある。私はこの粥が冷めないうちに、食べてしまおう」

居士たちは、腰掛を扉の外に出してあげ、長老は座って粥を食べた。

年若い比丘は、それを見て嫌悪した:

「この老人は飢餓に打ち負かされた。こういう風におかゆを食べるなんて、恥ずべきことではないか。」

長老は托鉢を終えて、寺院に帰ってから年若い比丘に尋ねた:

「賢者、仏陀の教法の中で、あなたは何か立脚点(殊勝な成就)を得ましたか?」

「はい、尊者。私はソータパナです」

「賢者、それならば、あなたは、これ以上、更に高い聖者を証悟する努力をする必要はない。というのも、あなたは漏尽者に対して、非常に失礼なことをしたのだから」

(3-17につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>。

是誰庵のひとやすみ~もしもお金が・・・

ある知り合いの fecebook をみていたら、Alan Watts という哲学者の言葉の紹介がありました:

「もしも(この世に)お金が存在しなかったら、(あなたが本当に)やりたいことはなんですか?」というのです。

私もつい、若かったころのことを思い出しました。

私は若気の至りで、結構早くに結婚してしまい、30歳くらいまでは、子育てと仕事(タイピスト)の両立で、てんやわんやの毎日でした。

そんな中、身体があまり丈夫でない事と、毎日毎日、満員電車に乗って通勤するのが苦痛だったので、もうちょっと好きな事で、身体が楽で、ペイのいい仕事はないかな、と転職を考えました。

そして、昔とった杵柄、<中国語の通訳がいいかも!>と思いついて、通訳学校に通い、晴れて通訳になりました。

これ、<天職だぁ~!>と思いましたね。

元々、私は日本語と中国語のバイリンガルだし、おしゃべりだし、フリーランサーなら好きな仕事を選べるし、企業や役所のクライアントの方々に随行して、あちこち旅行ができるし・・・実際、訪中団の随行と、インバンドの随行で、日本国内も中国も、あちこち見て歩くことができました。

でも、ふと思ったのですよね。

天職っていっても、もし、通訳の対価・報酬を貰えなくても、それでも喜んでやる?

やれる?

通訳(翻訳も)は自分にはぴったりの、やりがいのある仕事ですけれど、8時間とか、10時間とか拘束されて、一銭も報酬を貰えないなら、やっぱり、やれない。

それなら<天職>とは言えないなぁ。

お金を貰わなくても、命を懸けても、やりたいことってなんだろうか?

その時、私が心ひそかに設定した命題が、「もしもこの世にお金が存在しなかったら、それでも私がしている事、それは一体、何だろうか?」というものでした(そうと知ったら、きっと、Alan Watts も、我が意を得たり、ニンマリしてそうですね~笑)。

私はその時から、通訳をしながら(子供を育てるにはお金、いりますからね~笑)、<私の天職って何だろう>と、初心に戻って考えたものです。

今は緬甸パオ森林寺院のSayalay(尼僧)になって、これが天職だなって分かります。

生きている間に天職がみつかった、いや、天職の方から、私に手招きしてくれたみたいです。

人生は心意気でしょうか?

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-15

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

二、(個人的な)特別な業処

特別な業処を適切な形で与えるためには、教師は学生の主要な性質(性格)を決定しなければならない。これは非常に困難な作業である。

というのも、大部分の学生は、己自身を理解しておらず、良師は、あなたよりあなたを、より理解しているであろうから(意味反転?ママ)

一人一人の性格は、深浅の異なる多重的な構造を擁しているため、教師は時間をかけて、学生を観察しなければならない。

(後、第四章にて詳細説明する)。

このことから、あなたは、これらの業処を与えてくれる善友と親しみ、彼に対して大・小の、また、各種の義務を履行し、業処を学ぶ(+のがよい)。

《清浄道論・第三章・第65段》

◆結論

(一)止禅の段階においては、良師は、学生に二つの方面における業処を与える:

1、普遍的に適用される業処(一切処業処)。

2、(個人的な)特別な業処(応用業処)。

(二)普遍的な適用業処とは、一切処(=一切の場面)において、必要とされる業処。

(三)特別業処とは、40種類の業処の中の、人それぞれの個別の性格に適合する業処。

(3-16につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」(翻訳文)5-72

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

8-6-7 平捨の心で心を観ずるべき時に平捨の

心で心を観ずる

彼は、如何にして、平捨の心で心を観ずるべき時に平捨の心で心を観ずるのか?

修習の最中、彼の心が平静な道に進入するならば、禅の修行は順調であると言える。

たとえば、順調に、出入息または安般念似相に専注する時、その心は不軟弱、不動揺、不倦怠であり、彼は当該の心に対して、ちょうど順調に前に向かって走っている馬に対して、御者が傍観して干渉しないのと同じく、策励もしないし、抑制または激励もしない。

これが、彼が如何にして平捨の心で心を観ずるべき時に平捨の心で心を観ずるのか?(+という説明である)。

8-6-8 定の無い人から遠く離れる

「定の無い人から遠く離れる」は、出離の道を歩もうとしたことのない、多くの事に忙しく、心が散乱している人から、遠く離れる事を意味する。

8-6-9 定のある人に親しむ

「定のある人に親しむ」は、常に出離の道を歩み、すでに定を得ている人を言う。

(訳者注:平捨は中捨とも。静かな心で平等的、中立的である心境の事)

(5-73につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>