Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

般若の独り言~禅病

今日は3月28日。

本来なら U Puññānanda Sayadaw をお迎えしての

<湯布院法話会>を開催した後、Sayadaw を福岡国際空港へお見送りして、一息ついたころと思われます。残念ながら、COVID-19 の為、法話会は中止となりました。

今後、またの機会を見つけて、再度チャンレンジしましょう(私は高齢ですから、福岡や東京の若い方にお願いしたい)。

昨年夏、(趣味の?)仏教書翻訳も終わりましたし、今年は、長年の懸案でありました<禅病>(氣の偏差)の対治に取り掛かる事にしました。

2年前、U Puññānanda Sayadaw からは、

(禅病を防ぐ、また解除するには)安般念の時、意識を鼻の方・鼻の内部へもって行かない事、

意識は常に鼻の外、人中辺りにおいて置く事、

意識は皮膚に接触しない状態で、出入息に気が付いている事・・・

と指導を受けて、実践してみたました所、20年前の緬甸での安般念の修行の内に、知らず知らずのうちに頭頂部及び顔面に蓄積してしまっていた<氣>が動き出して、この一か月程、不快極まりない毎日となりました・・・

20年前の、緬甸での修行で、<氣>が眼窩、顔面に溜まって、長く不快感はあったのですが、これまでは特に動く事はなかったので危機感はそれほどなかったのですが・・・<氣>が動くと、極めて不快かつ危険。。

幸い、もう一人の師が<意守丹田>を教え下さり、現在は安般念を休んで、もっぱら<意守丹田>、禅病の対治に集中しています(この師曰く「まじめで頑張る人ほど禅病になる。修行に焦りは禁物じゃ」)。

今年の夏は、台湾で雨安居を過ごしたいと希望していますが、COVID-19 が収まっていなければ、難しいかもしれませんね。

修行されている皆様も、禅病、COVID-19 にお気をつけて、お身体ご自愛下さい。

追記:

座禅または立禅を終了する時、両の掌を摺合せ、暖かくなった掌を顔に当てて擦り・・・安般念で頭部に上った氣を身体下部へ流す・・・その後、「坐禅・瞑想はこれで終わります」と黙念すると、禅病の予防によいです。甩手shuai-shou・・・身体の遠心力を利用して両手を振る気功術・・・も非常によいです。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

般若の独り言~乞うメルアド

あつし様、コメント欄からメルアドお知らせ願います。本日、これからPC入れ替えしますので、応答、回答等は、しばらくの後に、ということで(現在時間14:00)。

よろしくお願いいたします。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

般若の独り言~しばしお休み

台湾でのリトリートに参加する為、1月24日に法雨道場に掛単した時、

「リトリートを終えたら、即刻日本に戻り、3月の湯布院法話会の準備をしなければ・・・」

と緊張半部、楽しみ半分の心境にいたのですが・・・

今は、WHOがパンデミック宣言をしたため、オリンピックの開催さえも危ぶまれている程です・・・

世は無常、何の立脚点もなく・・・

人生は苦であると、ゴータマ仏陀が喝破した通り・・・。

 

私、いつまでも旧型(デスクトップ型)の<マイクロソフト7>を使っている訳にもいかず、いよいよ、PC交換することになりました。新規購入したのはノート型、さて上手く移こうできますか。

ブログはしばし、お休みします。

三宝の保祐あれ。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

般若の独り言~二刀流の知恵

今年1月24日に日本を発って、2週間ほど嘉義法雨道場で

リトリートに参加しました。

最終日、澎湖島から参加していた女性(一時出家者)が、ニーモン(比丘尊者やsayalay方をレストランにお招きしての昼食のお布施、タイ語)をして下さいました。

食事の後、何人かのsayalayたちと、嘉義駅前で医療器具を販売している在家居士のAさんのお宅にお邪魔して、お茶を頂きました。

Aさん曰く

「南伝難伝(nanchuan-nanchuan)」

原始仏教がなかなか広がらない事を嘆いた言葉です。

台湾で中村元博士の様な役割を果たした方に印順和尚がおられます。

パーリ三蔵を研究して、大乗の迷信的な部分を批判して、<原始仏教に帰ろう>と運動を起したのですが、当時の大乗の僧侶方の反感を買い

「印順は中国大陸のスパイだ」

と誣告され、投獄されたそうです。

弟子の方々が救い出して、その後、嘉義に隠居したのだとか。

嘉義に、台湾最強比丘尼集団の香光尼僧団がありますが、ここではお年寄りには大乗を教え、若い人には原始仏教を教えるそうです(お年寄りに原始仏教を教えて、納得してもらうのは、難しい)。

原始仏教はバージョンアップではなく、原点回帰。

大乗がお好きな方はそれなりに・・・

Aさんがいたずらっぽく笑いながら、「二刀流の知恵」と教えて下さいました。

追補:嘉義は映画「嘉農」で有名になりましたが・・・日本の植民地時代、阿里山の木が伐られて、ここから日本に運ばれて行ったそうです。以前の嘉義農業高校は、現在、嘉義総合大学になっています。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

般若の独り言~無我と空

昨日、法友の方と、ゴータマ仏陀の教えの真髄であります<無我(空)>について、メールでやりとりをしました。

私の<空>の説明が面白い、ブログに書いて欲しいと言うので、以下、<無我>と<空>について書きます。

<無我>と<空>は、同じ物・事の、裏から説明するか表から説明するか、の違いです。

経典の研究者によると、ゴータマ仏陀は<無我>(anatta)を多く使い、<空>(sunnyata)はあまり使わなかったそうですが、後世になると(大乗では)空が多くなり、それがどんどん哲学化していって、本来の意味が理解しにくくなった様に思います。

無我は、中国語の仏教書ではいつも<無我><無我所有>

<無我空>とセットで出てきます。

日本では、我々は無我である、私というものはないのであるから我儘を言ってはならないとか、先の戦争では、私というものはないのであるから、喜んで他人を殺し、自分も死ねと教えました(どこかの教団もこの様に言って、大量殺人をしました)。

同調圧力の強い日本で、悟っていない者に対して、<無我>を<私はいない>と説明すると、如理作意が出来ない大衆によって誤解され、社会に歪が生じる様に思います。

<無我>は、文字面上、私はいない、と理解できますが、身体を構成する所の素粒子(色聚)と心の相互関係を考慮すると、

【身・心の相互依存によって生起する所の現象自体は存在するが、その現象の内において<永久不変の私>というものは存在しない】

【身体の移動という現象(=素粒子の刹那生・滅)はあっても、私(という永遠不変の存在)が移動するのではない】

と理解する方がリアリティーがある様に思います(これが分かるために、相当の修行が必要かもしれませんが。)

そして、中国語の仏教書ではいつも<無我>は<無我所有>と一緒に出てくるのですから<無我所有>とは何か?を理解するとよいでしょう。

これは世の中の事象において、私に所有されるものは何一つもない、という意味です。

心はコロコロ変化して、コントロールするのは難しいですし、身体は20歳で成長を止めて、後は老衰に向かい、死ぬときには自然なる宇宙に返還しなければなりません。

地位や名誉や財産の儚いことは皆様ご存の通りです。

世の中のすべての事象は、縁によって生起していて、縁によって生起するものは、我々は一瞬たりとも、所有する事はできないのです。

<空>ですが、本来<空>と<無我>は同じ意味につかわれていたもので、故に<無我空>という言い方をします。

<無我>は私というものはいない、私に所有されるものは何もない、というニュアンスに傾いていて、<空>は、名詞ですと空っぽ(素粒子が構造上空っぽの様等)、動詞ですと、ニュートラルに戻る、戻す、ニュートラルを維持する、というニュアンスを持ちます。

無我の<我>を永久不変の実質、すなわち<自性>という意味で理解して、<無我>を<自性がない>と理解する時、<空>という言葉もまた<自性がない>というニュアンスを持っている事に気が付いて、<無我>と<空>は同じことを言っているのだと、理解が進みます。

<無我>は名詞的ですが、<空>は動詞として使うと日常生活に役に立ちます。

<空>は、名詞では空っぽまたはニュートラルという意味を持ち、動詞ではニュートラルの状態に戻す、ニュートラルの状態を維持するという意味を持ちます。

安般念の修行が進むと、すべての事象は縁によって生起しており、故に、己の心をニュートラルに戻したり、ニュートラルに維持したりすることができる、と実践的に体験することができます。

心がニュートラルの時、安楽が訪れます。

凡夫の、ニュートラルな心の所縁は世間、すなわち有為法ですが、聖者のニュートラルな心の所縁は無為法(=涅槃、出世間)なのだ、と今の私は、この様に理解しています。

仏法は、口の端にぶら下げて、他者と議論するものではなく、修行し、体験し、自内証する為にあるものです。

<緬甸パオ森林寺院僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

般若の独り言~「摂阿毘達摩義論表解」(簡略版)-2

以下は、私の好きな「離路心」の図解(ch5-8)。

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あなたが死ぬ時に使う心は一個、次に受胎するのに使う心は一個・・・

一個の心の生・滅の速度は、10の8乗分の1秒です。

えっっ、そんなに早いのに、死亡心、結生心って、誰が見つけたの?

それは、ゴータマ仏陀です(笑)。

止・観(サマタ・vipassanā)の修行において、ある程度のレベルに到達した人は、己自身の心眼(慧眼)で(自他の過去世を見る事を通して)、死亡心、結生心を見る事ができます。

<緬甸パオ森林寺僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

般若の独り言~「摂阿毘達摩義論表解」(簡略版)-1

下記は、台湾嘉義法雨道場出版の「摂阿毘達摩義論表解」(簡略版)の表紙です。

明日より以降、<89心明細表>等の、アビダンマの内容をUPしますが、ゴータマ仏陀の教えは決して《信じるものではない》事が、お分かり頂けるでしょう。

仏陀のダンマは、よき善知識に随い、よく学び、深い洞察力を以て理解し、勇猛果敢に精進し、己自身の内に悟りの智慧、すなわち、般若の智慧を体現するもの、<自内証>するものです。

尚、表紙にあります<明法比丘>は、台湾において初めて原始仏教を導入し、原点回帰・・・原始仏教への回帰と推進を掲げて法雨道場を設立した先駆者でありますが、心臓の病で急逝されたため、現在は、明覚尊者が住職を務められています。明覚尊者のご子息の明徳尊者は、メイミョウにおいて、パオ・セヤドーの元、修行の身であります。

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 <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>