Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 2018年8月10日の翻訳をもって翻訳ワークは終了しました。                     コメント欄は利用OKですが、リトリートに入っている時は回答しません。。

般若の独り言~出発進行

私は、台湾のパオ系寺院なら、<法雨道場>が好きです。

ここの HP を時々覗きますが、非常に地味。

そこに載っているのは、毎週のパーリ語教室、アビダンマ講座のスケジュールと、リトリートのお知らせ、配布している仏教書の一覧くらいです。

でも、ここの、年に一度のリトリートが、素晴らしい。

指導者は緬甸パオ森林僧院出身の緬甸人比丘 P尊者。

P尊者、中国語堪能なので、インタビューも分かりやすく、夜毎の法話も、非常に楽しみなのです。

この<法雨>来年二月から三月にかけて、リトリートがありますので、早速申し込みをして、昨日は、福岡~台北のフライト・チケットを予約。

昨今 LCC のチケットは、WEB 上で予約するので、少し緊張気味。往路は<荷物預けないタイプ>を選択。大変にお安かったです(某旅行会社の窓口申し込み手数料と、同じくらい。バーゲン価格とはいえ、安すぎでしょ)

これから台北のホテル(ホステル)を決めれば出発進行 OK!ちょっと気が楽になりました。

来年は、他に二か国(ベトナムミャンマー)行く予定です。やはり、WEB で安いチケット探しますかね(WEBで安いのを買い慣れると、窓口では買えないですね)。

    <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

般若の独り言~概念を離れる

先日来、少し風邪気味。

初期の風邪は葛根湯で治すのが私流で、朝夕葛根湯を飲んでいましたら、風邪は悪化する事なく、そのまま治ってしまいましたが、咳だけ、なかなか止まない。

咳が出る度に「ああ、嫌だな」という<負のスパイラル>に落ち込むので、横になったまま、軽い瞑想をしてみました。

瞑想をしていると、咳が出そうになる瞬間、この現象を脳が取りまとめて「咳」という概念で纏め、その後に「嫌だな」という嫌悪感が生まれる事に気が付きました。

<臭い匂いは元からシャット!>じゃないですが、ゴホンゴホンという行為に対して、脳が「これは咳である」と言葉の意味づけをする・・・もし、この種の概念が出て来なければ、嫌悪感も出て来ない訳で・・・瞑想で正念正知の状態を保っていると概念は出て来ないので、嫌悪も出て来ないか、出てきても非常に淡いものになるようでした。

タイのアチャン・チャーの先生でありましたアチャン・マンは、荒野で病気になった時に「これは己の怖れの心を観察するよいチャンスだ」「このチャンスを使って修行できないのであれば、私はこのまま野に果てよう」という覚悟で、己の恐怖心の観察に取り組んだそうです。

恐怖心や嫌悪感と戦うのではなくて、瞑想の中で観察する。

そうすると、心と身体の関係の欺瞞性が見えてくる。

それが覚醒です。

追記:ブログの読者の方から「人が、何かをしたいと思う0.7秒前に、脳はすでにその行為を発注している(自由意思はない?)」という風な意見を頂きました。脳が行為を発注するその前は、どうなっているのでしょうか?いずれ瞑想で分かるようになるでしょうか?なかなか興味深いです。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

般若の独り言~翻訳ワークは終わりました

たまにこのブログを覗きに来られる方へ

私が、20年来取り組んでまいりました中国語仏教書(主にテーラワーダ系)の翻訳ワークは、2018年8月10日をもって、終了いたしました。

智慧の光」「如実知見」「菩提資糧」「パオ・セヤドー問答集」(パオ・セヤドーシリーズ)

「37道品ハンドブック」「Vipassanaハンドブック」

(Ledī sayādaw シリーズ)

「掌中の葉」「24縁発趣論」「基礎発趣論」「メーチ・ケーウの物語」「阿羅漢向・阿羅漢果」などなど

(約20冊)を講読ご希望の方は、ブログの中から見つけて、ご閲覧下さい。一部は<菩提樹文庫>にも掲載されています(翻訳した仏教書の題名は、2018年9月29日のブログ<翻訳書一覧>に列挙しました)。

尚、福岡ダンマセンター(FDC)において、月一回(第二日曜日)、勉強会を実施しています。法話の内容は、アビダンマ理論と初心者向け瞑想指導です。具体的な内容は、FDC・HP にてご確認下さい。

追補:『禅修指南』一書は、いずれ機会があれば翻訳したいと思っています。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

般若の独り言~近行定について

ブログの読者の方から「座禅・瞑想の時、自分が近行定に入った事を、どのように確認するのか?」という質問がありましたので、以下に説明します。

通常、座禅・瞑想(サマタ瞑想)において、獲得する目標に四禅八定というのがありますが、四禅とは初禅、第二禅、第三禅、第四禅、八定とは四つの定の事で、空無辺処定、識無辺処定、無所有処定、非想非非想処定を言います。

今回のご質問は<近行定>についてですが、遍作定、安止定、近行定の順で説明します(修行は、遍作定→近行定→安止定の順で進む)。

私は、仏法において定義は、曖昧な部分を少なく、なるべくはっきりさせた方がよいと考えている人間ですが、実は、言葉での定義には限界があります。それを踏まえた上で・・・。

遍作定は、一番初歩的な定です(四禅八定の前段階)。

たとえば、安般念を実践している修行者なら、己の鼻先に出入りする呼吸が見える・・・パオでは、目をつぶって座禅・瞑想するので、<見える>というより、息の出入りを<知っている>状態。

座蒲に座り、瞑想を始めたばかりの一座の始まりで、身体も心もまだ落ち着いていない為、雑念、妄想がそれなりに出る。

ですので、遍作定とは、息が 65~70% ほど見えていて、30~35% が雑念・妄想であるような状態、と言えるでしょうか。

安止定は nimitta(禅相、光)が30分、または一時間、一時間以上、一日中、安定して維持できている状態。

nimitta の光を利用して、心臓にある意門(心基)が観えたら、初禅成立(その後に第二禅→非想非非想処定へと続く)。

安止定=初禅でもあります。

近行定は、遍作定と安止定の間にあって、息の出入りを 95~100% 知っている、観えている状態。

雑念・妄想は、ごく偶にポッポッと出るけれども、心はそれに追随することなく、脳が次から次へと物語を作る、という事がない(注1)。

身・心共に、非常にリラックスして、心は、明晰である状態。nimitta の前兆のような、淡い雲のようなものが見えたり、閃光が見えたりする(人によってまちまち)。

座禅・瞑想の初め、まず遍作定から始まりますが、次の段階の近行定に入ったら、旗が立つ、標識が立つ、というような事はないので、修習を重ねて、自分でこの感覚を把握するより方法はないと思います。

己が遍作定の状態にあるのに、近行定であると錯覚して、指導者に「近行定出来ました」と報告してしまう事があります。

故意に自分を高く見せようとしているのではなく、誤解が故、錯覚が故という場合は仕方がないのですが、指導者から、次の段階の宿題を出されてもクリヤーできないので、その内、自分の自己評価が間違っている事に気が付きます。

この辺の間合いは、実践を重ねていくと、分かるようになります。

上に書きましたように、言葉での表現には限界がありますが、それでも定義を頭に入れておいた方が、修行しやすいと思います(指導者に報告する時にも、定義を踏まえる必要がありますので)。

皆さまの修行が進みますように。

(注1)ラベリング式瞑想は、脳が<物語>を作成しつづけています。パオ・メソッドでは、ラベリング禁止です。<瞑想>とは、己に関する積年の物語を止める事です。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

般若の独り言~曽我氏はなぜ三法印を言わないのか?

今日もまた、曽我氏の著書「無常・縁起・無我<苦をつくらない生き方>」について、書きます。

先にお断りしますが(しつこくて済みません)、私は、彼の当該の著書を読んでおりません。

20年前にWEB上で、彼と「輪廻はあるか、ないか」で議論をした時、彼は「ない派」で、私が「ある派」、水掛け論になった事があります。

その後、彼は「輪廻については語らない」立場を取り、議論は鎮静化しました。

私が緬甸・モラミャインのパオ森林僧院に修行に行った後、今日まで交流がありませんので、今現在の彼の考え方は了解しておりません。

故に、下に書く事は、彼の著書の題名から啓発された私の意見であり、彼への批判ではありません。

私が彼の著書の題名を知ってから、ずっと抱いていた違和感があります。

それは、彼はなぜ、仏法の真髄である<無常・苦・無我>を使わず、あえて<無常・縁起・無我>という表現をするのか?という点です。

三法印における<苦>の定義は<不円満>で、四苦八苦の<苦>とは、少し異なります。

ゴータマ仏陀は、ミクロの世界は<無常・苦・無我>であり、その内<苦>とは、素粒子の不円満性である、と説きました。

仏陀は輪廻派(注1)であるが故に、それは必然的に、出世間説を導きます

曽我氏は、このミクロの、存在の不円満性を提起しないで、そこに<縁起>を入れました。

それは、「我々は縁起的な存在であるから、お互いを許し許されて生きよう」と言っているように聞こえます(著書を読んでいないので、違っていましたら、私の憶測にすぎないというご批判は受けます。)

テーラワーダの国々のように、仏教が生活に根差している場合を除き、仏教の説明は、非常に難しいと思います。

先日も、日ごろ温泉施設でお世話になっている保健師さんに「サヤレーは仏教徒だけれど、何を信仰しているの?何を拝んでいるの?」と言われて、「否、仏教徒は信仰はしない。私の唯一の目標は、瞑想で素粒子を見て、解脱する事です」とご返事したら、絶句していました。

ゴータマ仏陀は、世俗諦と出世間諦を説きましたが、その主眼は<出世間諦>である事。

出世間諦、これは輪廻を認めなければ理解できない思想である事、ここを踏まえる必要があると思います。

輪廻を認めない人々は、どうしても世俗諦の範囲内で、仏法を説明しようとします。

その時、四苦八苦の<苦>は言っても、ミクロの<苦>、すなわち、存在における<永遠の不円満性>は、言わない。

著書を読んでいない為に、曽我氏が上に書いた通りだとは言いませんが、私の頭の中で、問題が整理されましたので、ブログに書いてみました。

著書を読まずにこれ以上書くと、失礼に当たりますね。正式の書評は、いずれ著書を読んだ後で。

(注1)輪廻のある、ない論争は、パオ・メソッドでは完全に終止符が打たれます。サマタ(初禅~4禅)を成功させた修行者は、次に<縁起>の修習に入りますが、これは己の過去世、未来世を確認する修行です。パオ・メソッドでは、定力のある人間は、己が輪廻する事を、簡単に確認する事ができます。

尚、輪廻を確認するのには、その他に、宿命通という名の神通力でも可能です。神通はパオでも、教える事は可能です。

   <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

 

 

 

般若の独り言~曽我氏の<無我>説に関する覚書

私は、曽我逸郎氏とは、20年前、私が修行の為、モーラミャインに出発する直前に、東京でお会いしたことがあり、知人であると言えば知人ですが、お会いしたのはその一回きり、その後、交流はほぼありません。

曽我氏は、長野県中川村の村長を退任されて、最近、「無常ー縁起ー無我<苦をうまない生き方>」という著書を上梓され、私に「読んで感想を述べて欲しい」というメールを送って来られました。

私は10月4日現在、この本をいまだ読んでおりません。いずれ図書館で借りて読んでみたいと思っています。

ただ、先日、曽我氏の facebook に、小出裕章氏(京都大学助教退官、原子力研究者)が「『無我なら誰が行為の責任を取るのか?』という疑問を発した事」が書かれていましたので、私も一言(当該の著書を読んでいないので、著書への直接の批判ではありません)。

本来、ゴータマ仏陀は無常・苦・無我と言ったと思います。

なぜ曽我氏はそれを、<無常・縁起・無我>と置き換えるのか、ちょっと理解できません(注1)

定義をお浚いしてみます。

無常=名(心心所)と色聚(素粒子)は、非常な速さで生・滅している。

苦(不円満)=名色の生・滅を止めようとしても止められないので、物・事は、不円満を内包する。

無我(1)=名色の生・滅は縁(自然の理法)によって生じているので、物・事の発生には、創造神とか主宰者というものの存在は介在しない。2600年前のインドでは<我>アートマン(&ブラフマン)は、創造神という意味を持っていたので、物事の生起に神は介在しないとしたゴータマ仏陀の<無我>説は、画期的だったと思います。

無我(2)=我々有情が持つ属性(美醜、聡明、愚鈍、感性などを含む自我、アイデンティティ)は、業と縁によるものであって、悟ればそれが、<本来無>である事がわかる。

曽我氏は、無我(2)に立脚して、美醜、聡明、愚鈍等の属性は<本来無>なのであるから、それらのことで苦を齎さないような生き方をしようではないか、と、我々に呼びかけているように思えます。

問題は、我々は、無常・苦・無我(彼の言い方なら無常・縁起・無我)以外に<業>を抱えている事です。

縁起を12縁起であると理解するならば、我々は、無明を抱え、貪・瞋・痴の三毒を抱え、日常的に七転八倒している生き物だという事になります。

ただ、ゴータマ仏陀の偉大な発見・・・心・心所と色身(色聚)は、刹那に生・滅する無常なるものであるから、業は切断することが出来る。

業を切断するには、凡夫には、如理作意が有効である(聖者阿羅漢になれば、唯作心になる)。

如理作意は正知(気づき、マインドフルネス)、正念による定(遍作定等)を獲得する事によって得る事ができる。

小出氏に「無我なら行為の責任は誰が取るのか?」と質問されたということは、曽我氏の主張に、<我々の行為は、縁起によって発生するが故に、何をやっても無罪である>という種類の<縁起免罪説>が含まれているものと推測されますが、縁起説は、業説でもある事を忘れてはならないと思います(業の余りの深さに、それを潔くそののまま受け入れるという生き方・・・親鸞など・・・はありですが、業による行為には、責任が伴うと私は思います。)

著書を読む機会がありましたら、次は著書の内容を踏まえた上で、読後感想文を書きます(その場合は、曽我氏に知らせます)。

今回は、小出氏の発言から連想した<思いつき>を書いてみました。上記の意見は、当該著書の内容とは、直接には無関係である事を申し添えておきます。

(注1)この件につき、思う所有りまして、翌日のブログにしたためました・・・《曽我氏はなぜ三法印を言わないのか》(10/05)参照の事。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

般若の独り言~不苦不楽受

私が仏教(アビダンマ)の勉強を始めた頃、感受というのは苦受、楽受と不苦不楽受がある、と教えられました。

苦受と楽受は理解できますが、不苦不楽受とは何か?

これがなかなか理解できないでいました。

今朝、まだ日が昇らない内に目が覚めたので、蒲団に横になったまま瞑想していた所、肩に痛みが走ったので「痛み」とラベリングしようとして止めて、ただ、肩に生起する感受を生起するままに、眺めていました(注1)。

すると

「あれ?これって『痛み』じゃなくて、肩に生起したただの『現象』じゃない?」

そして知ったのである。

これは<ただの現象>であって、故に<不苦不楽受>なのだという事を。

我々は、非常に多くの不苦不楽受を、うっかり<苦受>に分類してしまっているのではないでしょうか?

そして、感受を分類する時に使う道具は<言葉><ラベリング>。

私は大人になっても、よく次の様な体験を、思い起こすのです。

まだ小学校に上がる前の頃、<ままごと>に熱中していた時、祖母が私の額に手を当てて「あらら、熱がある。これは大変」と言ったら、私もへなへなと、そこに座り込んでしまって、あんなに熱中していた<ままごと>を、やめてしまったたことがあったのですが、熱があっても、それを言葉でラベリングして確認する事を知らない幼子は、祖母の言葉を聞く前には、平常心で遊びに夢中になっていられた・・・。

先日亡くなられた樹木希林さんは「人生は面白がればよい」と述べていましたが、それは「人生は苦である」とラベリングしたとたん、本当に苦しくなってしまうので、ラベリングをやめてニュートラル、不苦不楽を心がけ、そしてそれ(不苦不楽の自覚)を笑ってしまえば、長い人生事も無し・・・という意味なのではないかしらん、と私は解釈しています(難しく言うと「如理作意」で生きる。禅宗でいう赤心、キリスト教でいう所の、アダムとイブが食べた「知恵の実」も、そのような事を示唆しているように思います)。

(注1)パオ・メソッドはラベリング禁止ですが、ちょっとした習慣で、ついラベリングしてしまう事がある。

追補:凡夫にとって、激痛や意味のない使役、いじめや迫害、戦争は苦しいので、「人生に全くもって苦はない」というお花畑的観念論は、除きます。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>