wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書(主にテーラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言<是誰庵のひとやすみ>。

是誰庵のひとやすみ~台湾僧侶の予言

もう40年程前でしょうか。

私が仕事(中国語通訳)で台湾に滞在した折、台北の本屋さんで『阿含正見』という本を見つけました。

著者は釈従信、比丘です(大乗のお寺を出て、ご自分の精舎をお持ち、とのことでした)。

この本を読んで感動した私は、従信師に「弟子にして頂きたい」と手紙を差し上げた所、「私は弟子を取らない」というお返事と共に、彼の著書がドサッと届きました。

その中に「仏陀の本懐は、阿含にあり。しかし、これからテーラワーダ仏教が盛んになると、パーリ語熱が高まり、パーリ語熱に浮かされた仏教徒が出てくるだろう。困まったものだ」という一文がありました。

私は台湾で、大勢の比丘尼さん達と一緒に、ドイツ人の先生からパーリ語を学びましたが、いつも従信師の言葉を思い出して、仏教の話をする時、パーリ語を多用しないよう気をつけています(勿論、私のパーリ語自体、大したことありません~笑・・・特に動詞が難しいですね、活用が複雑で)。

今では、日本でも、パーリ語が大流行り。

悲しいかな、師の予言は当たりました。

若い頃に従信師に出会っていなかったら、私もパーリ語オタクになっていたかも知れません。

人生、何が幸いするか、本当に分からないものです。

        <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~修行の場

11月2日に<マハーカルナー法友会>が解散されてから、巷では色々な噂が飛び交っているようです。

噂は噂、自分の毎日の修行は、コツコツと続けましょう。

今回の事件で、修行の場を失った(とお思いの)方。

私が2015年6月26日から翻訳を始めて、このブログで公開した「パオ・セヤドー問答集」をご参考下さい(<菩提樹文庫>にも掲載済み)。

パオ・セヤドーは、マレーシアの修行者の質問に答えて以下のように言っています。(以下、概訳。正式には2015年公開の分をご参照下さい。)

問98:マレーシアに信頼できる指導者がいません。どうしたらいいですか?

パオ・セヤドーの答え:

自国によい指導者がいなかったら、緬甸(ミャンマー)のパオ森林寺院に来なさい。

問99:一人で修行ができますか?

パオ・セヤドーの答え:

私の著書と、《清浄道論》の禅の修行部分を読めば、自分で修行できるし、涅槃を体験・証悟する事も出来ます。

問103:自分の事を「聖者だ」と言いながら、戒律違反をしている人がいます。どういうことでしょうか?

パオ・セヤドーの答え:

聖者は己の命を懸けてでも、戒律を守ります。戒律を守れない人は、決して聖者ではありえません。

 

よろしければ、当ブログ内「パオ・セヤドー問答集」で検索されて、パオ・セヤドーの、マレーシアでの質疑応答、計128問を、ご閲読下さい。(<菩提樹文庫>はPDFの正順になります)

       <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>

 

 

是誰庵のひとやすみ~身一つで

私たちは、仏法を学び、実践するのに、何が必要でしょうか?

タイや緬甸(ミャンマー)の僧侶の像などを見ると、ゴータマ仏陀が着用されたのとほぼ同じと思われる黄衣を着て、肩から托鉢用の鉢を掛け、手には傘を持っています。

傘は、野宿する時に、広げて木の枝にぶら下げ、簡単な屋根のようにして使います(傘の周囲に、蚊帳を垂らすこともできます)。

彼らは身一つで、立っています。

彼らが、アビダンマの本を脇に抱えている像など、寡聞にしてみた事がありません。

本の中に書いていあるダンマは、死んだ知識です。一応参考にはなりますが、あなたの心の煩悩と、直接関係はありません。

私の吝嗇、私の強欲、私の恐怖を、パーリ語で置き換えてみても、私の中の吝嗇も強欲も恐怖も、無くなりはしません。

それよりも、変容する事です。

吝嗇な者は吝嗇でない者に、強欲な者は強欲でない者に、恐怖する者は恐怖しない者に、なればよいのです。

我々は、仏法の理論を学び、理論に納得してから、変容する訳ではありません。

変容は<今・ここ>において、刹那に生起します。

己の変容を受け止めてくれる己自身がいれば、それで十分です。

自分の外(そと)に、教師はいりません。

        <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>

 

 

★<マハーカルナー禅師への質問状>について(最終版)

マハーカルナー禅師には、当ブログにて、

<パオ僧院日本道場の説明責任>2016年12月20日付、

<マハーカルナー禅師への質問状>2017年11月9日付

の、二種類の質問状を公開・提出していますが、11月16日現在、双方とも、回答を頂いておりません。

勿論、お返事を頂けなかったのは、私が、自分のブログに一方的に掲載しただけで、禅師に、これら質問状の存在をお知らせしていない事が主な原因であり、禅師に非はありません。

ただ、11月2日に発生した「マハーカルナー禅師の戒律違反(疑惑)によるマハーカルナー法友会の閉鎖」事件が、大勢の人に困惑を齎していますので、禅師の近しい方がこの質問状の存在を、お知らせ頂ければ幸甚です。

 禅師とは2014年に2回(一回目、Mさんの同席を得て松戸の公民館において、私の二度目の出家の相談に乗って頂きました。二回目は、福岡ダンマセンターにて)お会いした事がありますので、パオ・セヤドーの著書『智慧の光』日本語翻訳者と言って頂ければ、思い出して頂けると思います。

        <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>

 

 

是誰庵のひとやすみ~法施は楽しい

私の楽しみは、仏教書を翻訳して、ブログで公開する事。

英語は苦手ですが、中国語は得意ですので、中国語の仏教書(大乗のでなくて、テーラワーダのもの)を日本語に翻訳するのが、私の楽しみ、私の日課。

今手元にある本、パオ・セヤドーの著作は、何冊も持っていますが、『証悟涅槃的唯一之道』が、一番最近に、書かれたもの。ミャンマーで見た同書は、大冊でしたが、これは薄いです。縮刷版?理由は・・・よく分かりません(内容は『智慧之光』とダブりますので、翻訳するかどうか、迷う所)。

レディー・サヤドーの『37菩提分手冊』。

レディー・サヤドーは緬甸の高僧で、タイのアチャン・マンのような方。クムダ・セヤドーも尊敬されているそうです。内容が難しそうですが、頑張って翻訳しますか、法友からのリクエストに応えて。

『アチャン・マン伝記』も面白そうですが、

『邁向見法涅槃』は、約10名のテーラワーダ僧侶の論文集で、高僧の色々な意見が知れて嬉しい。

南伝仏教在家居士戒律須知』日本のテーラワーダ好きな在家の方には、これ、必須かも。

『戒律綱要』は泰国僧王著・・・ちょっと恐れ多いですが、タイで「ナーワコワーダ」と呼ばれている、王様が書いた戒律本、比丘向け(王様、出家して戒律の研究をされ、当時の堕落したタイのサンガを立て直したそうです、すごいです)。

 他の、気の利いた事はできませんが、法施が出来る。

有難い事です。

        <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵の一休み~先に悟り後で学んだアチャン・ネン

ここ最近、毎日アチャン・ネンの著書「身念処」の翻訳をしておりますが、「アチャン・ネンってどんな人?」と

お思いの方も、いらっしゃるでしよう。

少しだけご紹介します(p221より抜粋)

父親の名は、パヤスッタヤ・ヌンクン。タイ西部、カンチャナブリ省長(=省は日本の県に相当)。

母親の名は、クンイン・プラ。

1879年1月31日生まれ。

34歳の時に突然に、最初の悟りである、無我を体験。

これより先、彼女は、苦を断じ滅する唯一の方法は、

<今・ここ>を保持する事であると確信する。

彼女はそれまで、一度も仏法を学んだ事がなく、四念処を実践した事もなかった。

その為、彼女は、彼女に四念処vipassana業処を教えてくれる善知識を探しまわり、最後に、バンコクのプラ寺にいたミャンマー人和尚(U Vilasa)を見つけて、彼の膝下、35歳の時から、正式に修行を始め、四か月で(覚醒、悟りを)成就した。

その後に初めて、アビダンマを研究し始め、やがて、重要な仏教の専門家となった。

彼女は、タイにおいて、初めてアビダンマの教えを導入したタイ人である。

その後、30年間、チョンブリにあるブーンカンジャナラム禅修センターにおいて、四念処観禅修法の指導をした。

86歳の時、バンコクで遷化。

モンクッ(ト)寺にて火葬された。

(訳者~仏法も、パーリ語も知らないまま、先に悟り、その後にアビダンマを学んで、己の悟りについての理解を深め、やがて国中にその名を轟かせ、一生在家のまま、瞑想指導者として人生を全うした。仏法を知らないまま、先に悟った人は、仏法への無知を恥じて、悟った後も、謙虚な人が多い。美しい生き方だと思います)。 

        <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

「身念処」1-66

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

1-8‐1 善悪と無記

Kusalaの定義は、一種の「善」または「熟練」の状態を言う。

Akusaraは、不善または不熟練。

Abyakata(無記)は、非善非悪:中間的、中立的または中性的(色身、涅槃と異熟心は、無記の具体例)。色身は無記である、というのも、色身は無知で無自覚であるから。

異熟心は無記である。というのも、異熟心は無分別(=物事の区別が出来な事)であるから、非善非悪である。

vipassanaを修して、「心が聞いてる」と観照する時、心は、縁に取りつくという事はなく、または現実の音声を聞いていないが、これが異熟心の一つの例である。

唯作心もまた異熟心である。

唯作心とは、すなわち、無作識で、すなわち、阿羅漢の心である。

涅槃もまた無記である。というのも、涅槃は道心と果心の所縁であり、道心と果心は、すべて出世間法ー非善非悪である。

善法には二種類ある:

a)生死輪廻。

b)生死輪廻を断つ(二度と色身があることがない)。

a)生死輪廻の善法:

戒(戒律を守る事)。

定(サマタ修法)

慧(世間的な智慧)

b)生死輪廻を断つ(二度と色身があることがない)事の善法:

戒(八聖道)

定(八聖道)

慧(八聖道)

戒・定・慧は、我々をして四聖諦を体験・証悟せしめる(1-2節、智階;または1-9節サマタ/vipassana 参照の事)。

(1-67につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>