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wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

是誰庵のひとやすみ~考えない事

以前、当ブログに<怒らない事>について書きましたが、今回は<考えない事>について・・・。

クムダ・セヤドーが指導される、大阪の瞑想会に行ってきました。若い人も大勢参加されていて・・・ある人から以下のような質問がありました。

「瞑想する時、考え事をしてはいけない、と言われますけれど、日常生活でも、考えない方がよいのでしょうか?」

私「考える、考えない、という事柄は、三つの場面、文脈に分けて考察すると、分かり易いです。」

「一番目は日常生活ですが、日常生活においては、色々、考える必要があるのではないですか?

今している仕事と収入は見合っているか(ブラック企業ではないか)?

収入に見合った生活をするには、どうしたらいいか?

結婚していて、子供がいれば、妻や子を愛するとはどういう事か?

その他色々、日常生活において、あれこれ考えないで、諸々の問題を、解決できますか?」

「ただし、考えない、考えないからこそ、よいアイデアが浮かぶ、快刀乱麻に問題が解決する、ということはあります。

これが、二番目です。

アインシュタインは、時間と空間の関係を、考えた結果ではなくて、ひらめきで知りましたが、その後に、色々、数式を考えました。

数式は彼にとって、考える手立てではなく、彼の発見した真理を、他人に納得してもらう為のものでした」

「詩人は、詩文を考えて書くのではなくて、最初から心に持っているものが、発現するのではないでしょうか?(考えて書いた詩は、説明調で、つまらないものが多い)」

「我々は本来誰でも、元々、心に知恵を擁していて、この知恵は、<考えない事>によって発現しますが、ほとんどの人が、心のこの機能に蓋をしてしまっていて、使えていないようです。」

「三番目は、瞑想中の心の構えについて、です。

瞑想をしている時は、色々な考え、妄想が出ない方がよいです。

ゴータマ仏陀の発見した真理~無常(刹那生滅)・苦(存在における円満性の欠如)・無我(縁起)は、非常に微細な現象であるため、それを如実に知見するためには、気づきの力を高める必要があり、瞑想中は、雑念や妄想の出ない心理状態を、維持するのが理想です。」

「しかし、瞑想から出てきたら、我々は当たり前の日常生活を送らねばなりません。当たり前の日常生活とは、常識のある、よき考えにもとづいた生活の事です。」

 

瞑想の先生に「考えるな」と言われたら、本当に思考が停止してしまって、《100%人生丸投げイエス・マン》になった・・・その教団の悲劇は、みなさまの記憶に新しいのではないでしょうか?

追記:瞑想して、雑念・妄想のない心理状態を体験したならば、それを日常生活でも応用できますが(正念正知)、しかしそれでも、日常生活において、考えるべき事柄は考えるべきであって、<考えない事、イコール、悟りだ>というスタンスは、如何なものかと思います。

 

 

 

是誰庵のひとやすみ~仏教の原点

私は子供の時から仏教が好きで、随分早くから、仏典を手当り次第、読んでいました。

その頃は、仏典と言えば大乗仏典の事で、中村元先生の原始仏教系の経典は、まだ世に出ていなかったと思います。

ただ、不思議なことに大乗経典を読みながら、子供心に「ゴータマ仏陀ってこんなこと言うかしらん?」という疑問が、フツフツと胸に湧きおこることでした。

長じて、大乗仏教は、仏陀涅槃 500 年後に出てきた思想で、仏陀の肉声(金口)は、ダンマパダやスッタ・ニパータの中の一部分にしか残されていない、という事がだんだんにわかってきました。

そんな訳で、青年の頃は、一時、大乗仏教を否定していた私ですが、最近は、そうでもないです。

例えば、南無阿弥陀仏の念仏ですが、タイのアーチャン・チャー(遷化)は、初心者が集中力を育成するのに、「ブッドー(仏陀)」「ブッドー」と唱えなさい、と教えていました。

集中力を養うための呪文(?)として、「南無阿弥陀仏」がだめで、「ブッドー」なら良いと言う理屈は成り立たない訳で・・・(ただ、南無阿弥陀仏は、アミターバ、すなわち、無量光、無量に尊い光、という概念が成立した地域で生まれた呪文で、ゴータマ仏陀の時代にはなかった概念なのでしょう。)

日本の仏教界の問題は、それら宗派ごとの修行方法の差異の問題より、戒・律が守られていないことにあると、私は思っています(勿論、戒律が守られれば、修行方法はなんでもよい、という事になる訳でもありませんが。修行方法と仏法の理念は、一枚の紙の表裏をなすからです)。

日本のある宗派の僧侶から「私たちは、先に、227条の小乗戒を受けて出家し、その後、小乗戒を捨てて大乗戒を受け、次に大乗戒も捨てて、在家に戻っている。故に、結婚しようが、蓄財しようが、なんでもOKだ」という説明を、聞いた事が有ります。

在家で仏法を実践し、説法もできる人がいたら、それは大変に結構なことですが、在家なのに法服を着て、お寺に住んで、結婚して、お布施もちゃっかり頂戴して・・・ということ、これを仏教の重篤な変質と言わないで、何と言ったらいいのでしょうか?

日本のお寺さんが、国民の信頼から遠く離れているのは、修行方法よりも、僧侶の振る舞いが、ゴータマ仏陀の説いたものから遠く離れているから、ではないでしょうか?

 

 

 

 

是誰庵のひとやすみ~マイネーと白い雲

最近のインターネットでは、寺島しのぶの長男まほろ君が歌舞伎デビューした、という事が、ニュースとして、画面をにぎわしています。

その見出しが

寺島しのぶまほろ君を2歳から超英才教育>

ちょっと嫌だな、と思いました。

まぁ、我々庶民、子供が高校を出てくれたら一安心、大学へ行ってくれれば万万歳、くらいで、2歳から英才教育、それも超がつくなんて、セレブって何考えてんの?とやっかみ半分、否定的だったのですが・・・。

その<超英才教育>という見出し部分を4,5回目にした後、私の気持ちがなぜか好奇心に変わって「2歳の子供に、一体何を教えるんだろうか?」と思い、クリックして、記事の中身を読んでみました(そこには、まほろ君は、2歳で日本舞踊を習い始めた、とありました。歌舞伎界の傍流の長男なら、当たり前と言えば当たり前?)

本当に<心>とはいいかげんなものですね。

これをアチャン・チャーは<マイネー>

いま考えている事はいずれ変わる、心とは、頼りないものだ、と言っていました。

中国の禅宗ではこう言います。

<長空不礙飛白雲>

心には白い雲(良い考え)も黒い雲(悪い考え)も浮かぶけれども、その時その時の条件によって心情は流動していて、やがては移り変わって行く。<心は流動する>という事実、それを受け入れなさい、と。

<本当の私>とは、長空(青空)のようなものかどうかはさておき、心(人の考え方)は、相当いい加減なものだな、と思ったのでした。

まほろ君頑張れ。

追記:<長空不礙飛白雲>の句の重点は、私は長空、青い空である、という事ではなくて、状況は変化するものだ、という事実・真理を飲み込むことができれば、人生、何があっても大丈夫、という意味。不動の私は、揺れ動く己の心を冷徹に受け入れたときに生まれる。

動の中に不動を観、不動の中に動を観る禅宗は、本来、人の思い込みを徹底的に、どこまでも奪うのであって、<青空の思想>を立てる事はない。

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-19

三、結行

結行(定の修習における、終了の仕方)

--心を収める事と、功を収める事

(=瞑想を終了、切り上げる事)

彼は、希望する処において、希望する時において、希望する長さの時間において、なんらの困難もなく(初禅などの)定から出てくる。

これが出定自在である。《清浄道論・第23章・第27段》

 

ここにおいて、第一級の修行者にとって、我々は、一般的な出定自在に限定して(+説明したいと思う)。

入定自在、住定自在、出定自在という、この三種類の項目の中で、多くの修行者は、ただ、前者二項目だけに注目し、第三番目の項目については、完全に軽視してしまっている。

彼らは通常、非常に大きな、気遣い、努力を払い、動作をゆっくりにし、忍耐力をもって、入定の技巧を学ぼうとする。

また、彼らは、住定自在の訓練(+の重要性)も強調し、己があらかじめ立てて置いた時間内に、定に住むことができるように(+と望んでいる)。

多くの人は、こう思う:「誰だって、出定したくなれば、定から出られるのだ」と。

実際は、我々の心は、自分が考えるほど、簡単、単純になってはいない。

(訳者追記:結行~~座禅・瞑想の終了の仕方~~を解説する指導者は、非常に少ないと思われる。結行は、非常に重要ですから、瞑想の修行で副作用を生じたくないと思われる人は、1-19以降の、翻訳文を熟読して下さい。順次翻訳します)。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-20につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-18

6、身正直性・心正直性

(kyujjukat、cittujjukat)

身正直性:心所が正直(=まっすぐ)で、嘘がない事。

心正直性:心が正直で、嘘がない事。

正直性の障礙:(修行の目標に対して)冷淡である事。

障礙が発生する原因:あなたの心がますます静かで、平和になるとき、あなたは、過度に中捨になり、定の修行の目標を体験することを忘れるか、または軽視するようになるが故に。

矯正の方法:定の修習の目標を、真心をこめて、体験し、感受する事。

あなたの心をして、真心を込めて、目標に対応するようにせしめる。

このようにすれば、身正直性と心正直性は生じることができる。

◆結論:

(一)正行における二項の原則:

1、如実:1%は1%、2%は2%。

2、自在:自在(心に求めることがない)に、修行の目標を体験する。

(二)定力を更に高めたいと希望するならば、六つの事柄を克服する事:

1、焦る事。

2、緊張する事。

3、掴む事(定の修習の目標を固く握りしめる事)。

4、「(+己は)定の修行者である」という粗雑な覚知を保持することを意図すること。

5、執着が習慣化している事(本来的に認識してきた粗雑な空間+に執着する事)。

6、(定の修習における目標に)冷淡な事。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-18につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-17

5、身練達性・心練達性

(kya-pguññat、cittta-pguññat)

身練達性:心所が健全で、病的でない事。

心練達性:心が健全で、病的でない事。

練達性の障礙:執着が習慣化している(本来的に認識している粗雑な空間に執着している)。

障礙が生じる原因:本来的に認識している粗雑な空間に(+己が存在する事に)あまりに習慣化しすぎている。

定力が深まると、心は粗雑なレベルから、微細な空間へと進展していくが、その時、恐れが生じ、前進できない。

矯正の方法:境界が自然に発展するようにする。あなたの心をして、自然な発展に向かわせる。このようにすれば、身練達性と心練達性は、生じることができる。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-17につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-16

4、身適業性・心適業性

(kya-kammaññat、citta-kammaññat)kya原文ママkayaが正しい?ー後ほど確認しますー訳者

身適業性:心所が、目標を縁に取ることに成功する事。

心適業性:心が、目標を縁に取ることに成功する事。

身適業性の障礙:保守に回る(「(+私は)定の修行者である」という粗い覚知に嵌る)

障礙が生じる原因:五種類の粗い感受と自我(=エゴ)の感覚を失うかも知れないという恐怖感のため、「(+私は)定の修行者である」という粗い覚知を保持しようと図る。

矯正の方法:「定の修行者」(+という覚知)を手放す事。あなたの心をして、忘我の境地に至らしめる。このようにすれば、身適業性と心適業性は生じる。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-17につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>