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wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

是誰庵のひとやすみ~読者の皆様へ(コメント欄は設けませんが)

私は緬甸(ミャンマー)のパオ森林寺院で出家したサヤレー(大乗で比丘尼に相当)ですが、中国語で書かれた法話(基本的には、台湾で出版されたもの)を日本語に翻訳し、当ブログにて、公開しています。

そのそもそものきっかけは、パオ・セヤドーの著書「智慧之光」(中国語版)を、台湾のパーリ語教室で知り合った法友から頂いたのが、始まりです(翻訳して、日本語版「智慧の光」として公開済み。HP『菩提樹文庫』にて、全編、閲覧可能)。

ただ、日本の長年の友人(主婦)から「あなたの翻訳、読んでみたけど意味不明」「もっと普通の、日常生活の事を書け」とお叱りを受けたので、その後は、<是誰庵のひとやすみ>を追加して、そこでは、日常雑感を書いています。

最近、<いいね>の☆をたくさん頂くようになりました。

読者の皆様とコメントで交流できれば、と思うのですが、やはり、会ったことのない、見ず知らずの人と、インターネット上で交流するのは、難しいと思います。

お会いして身振り手振り、表情を見ながらお話すれば、すぐに打ち解ける事が出来ると思いますが、人それぞれ、人生における歴史・背景があり、インターネット上では、その人を理解するまで時間がかかります。

そんな訳でコメント欄は設置していませんが、現在翻訳中の著書では、パオ・セヤドーの「顕正法蔵」、シッダッタ学院の「掌中の葉」など、これらには、瞑想者に欠かせない智慧が詰まっていますので、是非、参考にされて下さい。

                 Pañña-adhika Sayalay 敬具

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-22

◆結論:

(一)定を修習する時、我々は、定の特徴である「不散乱」、定の作用である「散乱の除去」、定の顕現状態である「不動揺」を、育成してはならない。

上記は、ただ、定の修習における結果に過ぎないのだから。

(二)定を修習する時、我々は、定の近因(=直接原因)、すなわち、楽しさを育成しなければならない。

 

正因と邪因

不適当な要素を育成する人、彼の行道は、艱難であり、到達は遅い(苦行の道は、進むのが遅い)。

適切な要素を育成する人、彼の行道は容易であり、到達は速い(楽行の道は、進むのが速い)。《清浄道論・第三品》

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-23につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~春ですね

明日、友人が是誰庵に泊まりに来るので、少し気合を入れて、いくつか、お料理を作りました。

釘煮。

きびなご(こうなご)を同量の醤油と砂糖で煮たもの。兵庫県の名物料理、らしいです。私は神戸生まれですが、子供の時、食べたことなかったです。

台所担当の祖母(台湾人)は、きびなごは、多めの油で炒めてましたね。中国人、台湾人は、魚は炙ったり、甘辛しょうゆで煮たりは、あまりしないですね。魚は、油で両面ソティーにするか、蒸すのが多いです。

蕗味噌。

裏の空き地にフキノトウがワンサカ、顔を出しています。

昨日、隣のおじさんがバケツ一杯採っていて、私を見かけると、ちょっとばつの悪そうな顔していました。

他人の空き地(地主は都会にいて戻ってこない)とはいえ、独り占めしたみたいで、ちょっと良心が咎めたのでしょうか。

私はその二、三日前に、丼一杯分くらい摘みましたから、もう十分です。女性で一人暮らし、それほど食べられるものではありませんものね(次は、まだ細い蕗を煮て、キャラブキにするのが楽しみです)。

酢味噌。

これは、我が家の庭に一杯生えている、野カンゾウの若芽を和えるためのもの。酢味噌和えなんて、めったに作らないので、分量と作り方は、インターネットのレシピを見ながら(分量さえ分かれば簡単です)。ついでに、こんにゃくも茹でれば、味噌田楽ですね。

もうすぐヨモギも生えてきます。

今年は草団子を作ってみようかな。餅つき機ともち米はそろっているので、草餅ですね。

大昔、実家には、お菓子用の木型があって、春になると、祖母が亀の形をした草餅を作ってくれました。

掌くらいの、草色の、亀の形のお餅を割ると、亀のお腹にあんこが入っていて、ヨモギの香と甘いあんこ、美味しかったなぁ(底に敷いたのは、竹の皮で、これがまた、ほのかに香るのですよね。)

日本語ができない祖母が、どうやって材料をそろえて作っていたのか、末っ子でお祖母ちゃん子だった私は三文安、トント覚えていないです。

祖母と山に入って、ヨモギを摘んだのが、今となっては、よい思い出です。

Y盆地は、これから桜と菜の花の競演になります。

楽しみですね。

 

 

是誰庵のひとやすみ~ニューカレドニアって、あんた!

私は緬甸(ミャンマー)で出家した尼僧で(緬甸では比丘尼ではなく、サヤレーと呼ぶ)、日本では九州の片田舎で一人、庵を結んで住んでいます。

そんな私が、家族の事を話すのは「おいおい、家族がいたんかい!」と言われそうですが・・・(笑)。

私には息子が二人いて、長男は会社員、二男はカメラマンです。

この二男の facebook を覗いてみたら、四日前に<某雑誌の依頼で、野球選手の写真を撮った><これがその写真です>というお知らせがあったので、「おっ、元気に仕事しているな」とちょっと安心していたのですが、今日、facebook を見てみると、<俺、今、ニューカレドニアにいます>って、ちょっと、あんた!

親が出家して、俗世を厭離しているからと言って(いや、まぁ、それほど俗世が嫌いなわけではありませんが~笑)、地球の裏側?に行くときくらい、親に言ってから行きなさい!(しかし、この子が9年に及ぶ世界放浪の旅に出たときも、事後承諾だったなぁ・・・。私が嘆くと、友人は「母親の遺伝じゃね」と、鼻で笑っていましたっけ。

やんぬるかな。)

ちなみに、俗世とか世俗というのは、本来は、住んでいる場所を指すのではなくて、心の内面を言います。山奥に住んでいてもイライラしていれば、厭離とは言はない、訳です。

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-21

三番目の誤解・盲点は:

我々が「定の作用は散乱の除去である」と連想する時、我々は、非常に強烈な動機を秘めつつ、心内のすべての考えを取り除いて、定を育成しようとする。

しかしながら、このように実践する事は、定の作用を育成しているのであって、定の近因(=直接原因)を育成しているのではない。

実際の正確なやり方は、定の近因を育成することを通して、定を獲得しなければならない。

定を得て後ならば、定はおのずと、散乱を除去する作用を擁しており、あなたの雑念は自然に、ますます少なくなっていくのである。

ある人が問う:

「我々は、心がどこかへ出かけて行って、何かの考え事をすることを知覚した時、心は、定の修習の目標へと、引き戻さなければならないのではないですか?」

そうである、しかし、そのようにすることは、我々の主要な重点では、ないのである。

我々の主要な重点は、定の近因にある。

我々は、心をして、益々修行自身を享受させねばならない。

毎回の修行の時に、ますます多くの楽しさがあるということを通して、定は、おのずと生じてくるのである。

定力が深まるとき、それ自体が散乱を除去する。

あなたは、本当に、すべての雑念を取り除く事を通して、定を生じせしめるのだと思っては、ならない。

あなたが定の修習を始めるにあたり、あなたに一分(いちぶん)の享受がある時、あなたは一分の楽しさを感じることができ、まさにこの一分の楽しさにおいて、一分の定力が生じるのである。

この一分の定力とは、「散乱を除去する」作用であり、それは、雑念の生起を避けるのにとって、有効である。

そして、(+雑念が減ることによって)次には二分目の楽しさが生じる。二分目の楽しさは二分目の定力を生じせしめる。

このようにして、一種の良性循環が生じる:

軽微な定力は、雑念を生じさせない作用があり、そのことによって、更に強い定力を生むことになる。

上記の事から、我々は、近因を育成しなければならず、(+そのようにすれば)100%の「散乱の無い状態」は、最終的に、自然に出現するのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-22につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-20

故に、定を修する時、我々の重点は「不散乱」「散乱の除去」「不動揺」に置くのではなくて、「楽しさ」に置くべきである。

「不散乱」「散乱の除去」「不動揺」は、すべて定の修習の結果であり、「楽しさ」こそが、定の原因、源なのである。

定を修する結果とは、定そのものであり、それは三つの方面から理解することができる:

それの特徴から理解する時、それは「不動揺」である;

それの作用から理解する時、それは「散乱の除去」であり;

顕現された状態から見ると、それは「不動揺」である。

しかし、定の修習の過程においては、我々は、定の原因、源(近因、+直接原因)を育成するべきであって、その結果を育成するのでは、ないのである。

二つ目の誤解・盲点は:

我々は「定の特徴とは不散乱である」と連想した時、我々は非常に、心に雑念が生じるのを恐れる様になる。

そして、我々は、修行の目標を凍結し、固定化し、以下のように思いなす:

「今、私には雑念がなく、ただ単一の目標のみがある。故に私は、不散乱というこの種の特徴を具備しており、私は将に、定力を育成しつつある」と。

しかし、あなたがそのように実践する時、あなたは定の特徴を育成しているのであって、定の近因を育成しているのではないのである。

実際に、あなたが実践しなければならないのは、あなたの心をして、益々、修行(+の楽しみ)を享受することである。

あなたの心が、益々修行を楽しむことが出来て初めて、あなたの心は自然に、不散乱の特徴を具備する定を、生じせしめることができる。

故に、あなたは、特徴を育成してはならず、近因を育成しなければならない。

楽しさがある時初めて、あなたの心は、不散乱の特徴を持つ定に入るのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-21につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

是誰庵のひとやすみ~戒より始めよ

昨日、インターネットを見ていますと、オウム教団・サリン事件の中川死刑囚が、手記を発表した、とありました。

出版の動機は、二度とこういう事件が起きないように、との事のようです。

仏教(仏法)を学ぶのは、なかなか大変です。

これは学ぶに値する教えか、洗脳されていないかどうか、よくよく心しなければなりません。

少し学んで実践してみて、また少し学び、実践する。少し臆病に、ゆっくり目の方が、よいかも知れません。

「俺は悟った」とか「悟ったからには、どんな事でもできる」などと豪語しない事です(ひっこみがつかなくなって、他人に利用されます)。

悟った(ように見える)人を見ると、つい、あこがれてしまいますが、相手も人間、こちらも人間。あまり美化しすぎないのが肝要です。

仏教では、<依法不依人>と言います。

仏法を噛み砕いて、説法をしてくれる比丘や先達、善知識は、ありがたいものですが、大事なのは法であって、人ではありません。

仏陀仏教の開祖ですが、仏陀以外に、教祖だとかなんだとか、持ち上げる必要はないのです(仏陀本人は、自分を持ち上げる人を批判しています。「私に会いに来る暇があったら、修行しなさい」と。)

かの教団の人々が、仏陀の教えた出家の227戒、いや、在家(または出家)の五戒だけでも守っていたなら・・・と、かえすがえす、残念に思います(第一条、不殺生。第二条、不偸盗。第三条、不妄語。第四条、不邪淫。第五条、不飲酒)。

南伝仏教では比丘は227戒を守りますが、その中に「他人の財産を、布施の名目で奪ってはならない」というのがあります。

オウムはこの部分でも、破戒しています。

タイや緬甸(ミャンマー)の南伝仏教(テラワーダ)では、在家仏教徒もよく戒と律を学び、出家比丘が戒律違反をすると、きっちり、厳しく批判します。

 出家も在家も、<櫂(戒)より始めよ>では、ないでしょうか?