wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」(翻訳文)5-63

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

8-6-5-1 軽安を生起させることのできる7種類の方法

これ以外に、軽安を生起させることのできる7種類の方法がある。

1、良い食べ物。

2、心地よい気候の場所に住む。

3、リラックスした姿勢を保つ。

4、中道を保つ。または、多すぎず、少なすぎない精進。

5、残虐な人、または怒りっぽい人と親しまない。

6、身体動作が落ち着いている、静かな人と親しむ。

7、軽安覚支を育成すると決意する。

軽安覚支は(下記のような人間に)生起する:

(一)有益でかつ、適切な食べ物を食する人。

(二)心地よい気候を善用する人。

(三)四種類の姿勢の中から、最適なものを選ぶ(ただし、菩薩のように、一切の気候と姿勢を耐え忍ぶ偉人を言うのではなく、ある種の人々にとって、ある種の気候と姿勢が、悪い効果を齎す時:よくない気候と姿勢を避けて、彼にとって適合する気候と姿勢を選択するとき、軽安は生起する。)

(四)「中道を保つ」とは、己自身の業は、己の財産であり、他人の業は他人の財産であるという事に、思いを巡らす事。中道を保つことを通して、軽安は生起する。

(五)石や棒切れを持って、各地の人々に攻撃をかける暴徒から、遠く離れる事によって、軽安は生起する。

(六)手足、身体の方面において、自制があり、安らかで静かな人と親しめば、軽安は生起する。

(七)行(歩く)、住(立ち止まる)、座、臥(横になる)などの、一切の姿勢と動作の中において、心をして、軽安覚支を育成せしめようとする人には、軽安覚支が生起する。(5-64につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-36

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

少しばかりの覚知(=自覚)があれば、我々は、我々の心内の評論は「私」や「私の」を巡ってグルグル回っていることが分かる。

我々は、己自身について、煩わしさを感じるようになり、この内心のラジオを止めて、少し静かにしていたいと思う(+ようになる)。

段階的な訓練を経て、最後には、このラジオは止めることができる。

その時、まさに仏陀が言うように、我々の心内にはいまだ、法を分析したいと思う、慣習的な想いが残っている(+ことに気が付くであろう)。

多くの仏法書を読んだことのある人々は、彼らのその時点での修行体験(境界)を名づけたり、分析したりする:

「これが、あの平静な知覚なのか?」

「これは近行定なのか、それとも安止定なのか?」

「私は今、非常に強いエネルギーを生じているのか?それともこれは、定力なのか?」

・・・

この段階において、もしあなたが、あなたの修行の目的を、はっきりと思いだすことができるならば、あなたはこの関門を超越することができるかであろう。

止禅を修行する目的は、内心の完璧な安寧と静けさ(+を獲得すること)であり、静止と清明であり、あらゆる先入観を取り払って、自由な心でもって、<今・ここ>の境界を体験し、享受するものであり、それを分析する必要はないのである。

法を分析しようとする考えも消え去った時、心は自然に、まったくの造作を必要としない一心なる専注に進入するのである。

◆結論:

以下の四種類の段階の煩悩を浄化する事を通して、我々は、最終的に禅定を得ることができる。

(一)身体と言語の方面において、表出される粗い煩悩:五戒への違反。

(二)意念において、過去の出来事や未来の計画に対して、五蓋などの思いや考えが生じる。

(三)意念において、「私」「私の」を巡って内心に論評が起きる。

(四)意念いおいて、修行の体験(境界)を名づけたり、解釈したいがために、法を分析する考えが生じる。

(2-37につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」(翻訳文)5-62

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

ここにおいて、上に述べた軽安、定と捨という、この三種類の覚支を育成するに有益な数々の方法に関して、それらはそれぞれの覚支の栄養(または因)であることを、理解しなければならない。

仏陀は言う:

「比丘たちよ。

何が、未だ生起していない軽安覚支が生起する栄養であるか、またはすでに生起した軽安覚支を成長させ、増長させ、強化し、円満にさせる栄養であるか?

比丘たちよ。

身(=心所)の軽安と、心の軽安がある。

如理作意、それらは、未だ生起しない軽安覚支を生起させる栄養であり、またはすでに生起した軽安覚支を成長させ、増長させ、強化し、円満にさせる栄養である。

次に、比丘たちよ。

何が、未だ生起していない定覚支が生起する栄養であるか、またはすでに生起した定覚支を成長させ、増長させ、強化し、円満にさせる栄養であるか?

比丘たちよ。

平静の相と不混乱の相がある。如理作意、それらは、未だ生起しない定覚支を生起させる栄養であり、またはすでに生起した定覚支を成長させ、増長させ、強化し、円満にさせる栄養である。

次に、比丘たちよ。

何が、未だ生起していない捨覚支が生起する栄養であるか、またはすでに生起した捨覚支を成長させ、増長させ、強化し、円満にさせる栄養であるか?

比丘たちよ。

捨覚支となる基本的な法がある。

如理作意、それらは、未だ生起しない捨覚支を生起させる栄養であり、またはすでに生起した捨覚支を成長させ、増長させ、強化し、円満にさせる栄養である。

(《相応部》)

ここにおいて、この三種類の状況において、如理作意するということは、観察を通して、また彼の心中に生起した軽安、定と捨を重複(+して体験)する方式であり、そのことによって、それらの作意を、激発せんとするのである。

安寧と静けさ自体は、すなわち平静の相であり;不混乱の相はすなわち、不散乱を意味する。

(5-63につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」(翻訳文)5-61

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

8-6-5 心がコントロールされるべき時にコントロールされる

人は、どのようにして、その心がコントロールされるべき時にコントロールされるか?

心が、あまりにも強すぎる恐怖心と喜悦で動揺する時、彼は択法、精進と喜という、この三種類の覚支を強化してはならず、彼は軽安、定と捨という、この三覚支を強化しなければならない。

世尊は言う:

「比丘たちよ。

心が動揺している時、その時は、軽安、定と捨を強化する時である。

なぜにか?

比丘たちよ。心が動揺する時、これらの覚支は、心を平静にすることができるが故に。」

比丘たちよ。

もし、人が、大きな焚き火を消したいと思ったとき、湿った草、湿った牛糞、湿った木材を火に投げ入れ、水を掛け、その上に砂をかけるならば、彼は火を消すことができるだろうか?」

「はい、尊者」

「同様に、比丘たちよ。

心が動揺する時、その時は、軽安、定と捨を強化する時である。

なぜにか?

比丘たちよ。

心が動揺する時、これらの覚支は、心を平静にすることができるが故に。

そして、比丘たちよ。

すべての時において、念はつねに有益であると、私は言うのである。」(《相応部》)

(5-62につづく)

(訳者コメント:ラべリングの瞑想を実践して、精神的に追い詰められたり、体調を壊す人がいますが、当該<No.5-61>を参照されれば、禅病を治すことができると思います。老婆心まで)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点原文ママ

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-35

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

上記の経文から、我々は定の修習において、脳内に起伏する思いや考えは、粗いものから微細なものへと、変化することが分かる。

最初の段階では、非常に粗い煩悩があり、それらは身業や口業の方面で、表現されることさえある。

たとえば、五戒を犯す、などである。

もしあなたが五戒を守ることができたならば、最も粗い煩悩は調伏された、とみなしてよい。

この時、内心に去来する主要な煩悩は、五蓋である。

しかしながら、多くの初心者にとって、最も克服することが難しいのは、心内の論評である。

この種の煩悩は、「私」及び「私の」(+という概念)と関係する。

「私は修行がうまくいっているだろうか?」

「私の修行は、うまくいっていないのではないだろうか?」

「私の修行は、いつになったらうまくいくのだろうか?」

「私は一時間座禅できるようになった、すごいでしょ!」

「もし、何時の日にか阿羅漢になったならば、私はどんな感じがするでしょうか?」

「私はとても静かに座っていられるが、人々は私を評価してくれるだろうか?」

(2-36につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

是誰庵のひとやすみ~オハナ

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いよいよ梅雨の到来で、九州は、今日は午後から豪雨になるとの事。

暴風雨であっても、水中運動だけは欠かせませんが、庭を少し見回ったら、後はオウチで静かに蟄居ですか、ね。

写真は、噂の愛犬オハナ君。

オハナは、佐賀の山の中に捨てられていたペキニーズ

お金で買った純粋種の犬を捨てる人はいませんから、ペットショップが、売れないまま大きくなってしまったのを持て余して、捨てたのだろうとは、センターから救出後、彼の健康診断を受け持った獣医師さんのご意見。

青紫の涼しげな花は、長者原の山登りの帰路、飯田高原の花屋さんで買ったもの。

名前は、聞いたけど忘れました・・・、葉っぱはラビット・イヤーみたいに、ビロード風です。我が盆地は寒いので、年越しは無理、一年草扱いだそうです。

鉢植えの竜胆やボサノヴァ(ベゴニア)が年越しして、季節が来ると、何度も咲いてくれているので、ちょっと残念。

 

是誰庵のひとやすみ~会ってきました

インド仏教界の英雄、佐々井秀嶺師が、四国の過疎村土佐町に講演においでになるというので、はるばる大分からフェリーに乗って、土佐町田井の農業改善センター(講演会場)まで、行ってきました。

途中寄り道をしたので、講演会場に到着したのは、開始時間ギリギリ。

先に写真家 I 氏(私の息子~笑)によるインドや佐々井師の概略紹介、その後、佐々井師による講演。

師のお話は、日本での子供時代の出来事とインドでの話。

インドでの、一年間の改宗者は50万人に上るのではないか、という事でした(あまりに多くて統計が取れない)。

ヒンズー教の内部にいては差別される人々が立ち上がって、次々と仏教へ改宗している様が目に見えるようです。

師は力強くおっしゃいます

「人に仏性あり」

仏教は、自由、平等、博愛を掲げる」と。

ヒンズーだって真我をいい、人はみな神聖であるといいながら、差別がなくならないのは、政治が宗教を利用しているのか、宗教が政治に翻弄されているのか・・・いずれにせよ、差別することによって、心理的、経済的に得をする人間がいて、他者を差別する事を通して邪な利益を得るという構造は、インドのカースト制の中だけでなく、我々一人一人の人間の心の中に巣くう闇ではないでしょうか?

それにつけても、仏陀が述べた「気づきをもって生きる事(眠っている時間以外は、常に気づいていよ)」の重要性、明晰さ。

仏教徒は、ゴータマ仏陀の教えしこの旗印を、忘れてはならない。