Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」10-4(294/430)未完

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

業は、四種類に分類することができる、すなわち、

現法受業(diṭṭhadhamma-vedaniya kamma)、

次生受業(upapajja-vedaniya kamma)、

後後受業(aparapariya-vedaniya kamma)、

既有業(ahosi kamma)である。

現法受業とは、今の生において果報が生じる業のことであり、

次生受業とは、次の生において果報が生じるであろう業のことであり、

後後受業とは、次の生のその後の未来生において果報が生じる業のとこであり、

既有業とは、「この種の業は形成されたものの、過去において果報は生じておらず、現在においても果報は生じておらず、未来においても果報が生じない、その様に業である。」

これらの業の中で、

(一)七個の速行心の中の、一番目の速行心の思は、善であろうが、悪であろが、みな「現法受業」と呼ぶ。

欲界の衆生について言えば、一番目の速行心は、七個の速行心の内の最も弱いものであり、それは今の生で果報を結することはできない。

もし、今の生で果報を生じないならば、それは既有業と呼ばれるが、その意味はすなわち、この種の業は形成されたものの、しかし、過去には果報が結成されることはなく、現在も果報が結成されることがなく、未来もまた果報を結成することがなく、ただ業の名称があるのみである。

(二)目標を達成した七番目の速行心の思を「次生受業」と言う。

い。

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」10-3(292/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

《中部》(Majjhima Nīkāya)の中において、《小業分別經》(Cūḷakammavibhaṅga)という名の經がある。

私は、この經に基づいて、業と果に関しての説明をしてみたいと思う。

ある時、世尊は舎衛城のジェータ林給孤独園に留まっていた。

その時婆羅門の学生である須婆都提子が世尊に会いに来て、世尊と相互に挨拶を交わした。

相互に挨拶を交わした後、彼は傍に坐って、世尊に、業と果の多様化に関する14の質問をした。

なぜ、彼はこれらの問題を尋ねたのか?

《中部》の註釈によると、彼の父親都提婆羅門(Brahmin Yodeyya)は、憍薩摩羅国王の国師であった。

都提が在世の時、極めて吝嗇であった為に、死後、己自身の家の犬に生まれ変わった。

仏陀は、この事を須婆に教え、また、その犬に前世人間であった時に、埋めた財宝を掘り上げさせて、それでもって、この犬が須婆の父親が生まれ変わったのであると、証明した。

この件で、須婆は仏陀に対する信心(=確信)を起し、彼は仏陀に会いに行きたいと思い、また業報の作用について、教えを乞いたいと思った。

彼の提出した14の問題に関して、しっかりと聞いて頂きたい;

「大師ゴータマ、何の因と縁で、人類には、高い、低いというレベルの差があるのですか?

人類は:

(一)短命と(二)長寿;

(三)多病と(四)健康;

(五)醜悪と(六)美しい

(七)影響力のない人と(八)影響力のある人;

(九)貧乏と(十)富裕;

(11)出身が低いと(12)出身が高貴;

(13)智慧が暗愚と(14)智慧が高い

がある。

大師ゴータマ、人類にこの様な高下があるのは、何が原因なのでしょうか?」

仏陀はまず簡単な方式でもって回答した:

「学生よ、

衆生は彼ら自身が造(ナ)した所の業の所有者であり、業の継承者である;

彼らは業を源として、業に結縛され、業に依存する。

これによって、業が衆生に高下を齎す。」

その時、須婆は以下の様に言って、仏陀に詳細に説明してくれる様に頼んだ:

「大師ゴータマが簡潔に説明して、いまだ詳細には話されていないこの話に関して、私はその詳細な含意を知りません。

もし、大師ゴータマが私のために説法をして、私に大師ゴータマの詳細な含意が分かるようにして頂けるならば、私は非常に嬉しく思います。」

なぜ、仏陀は聞く者が、その話の含意を理解できない様な話し方で話したのか?

それは、婆羅門は通常非常に傲慢であって、彼らは一切の人間の中で、最も智慧があると思っているからである。

もし、仏陀が最初から詳細に解答すると、彼らは、彼らは元々からすでに、仏陀の話す、これらの道理を知っていたのだ、と言うかも知れない。

故に、仏陀は先に、簡単な回答をして、須婆が仏陀に、もっと詳しく話してほしいと頼んで初めて、この問題に逐一、回答したのである。

仏陀の回答に解説を加える前、私は先に、業果の法則について検討してみたいと思う;

こうすれば、我々をして、仏陀の回答に関して、更に深く理解することができる様になるが故に。

業果の法則は、非常に奥深く、凡夫には明確に知れることはない。

それは仏陀の教法の核心である。

真正なる仏教徒になるためには、最も重要なことは、業果の法則を理解しし、深く信じることである;

こうしたことから、我々は、業果の法則に関する説明に、密接な注意を払わねばならない。

仏陀の教導に随えば、一弾指の間に、数百万個意門心路過程が生・滅する。

一つひとつの意門心路過程の中においては、七個の速行心(javana)が存在している。

業とはすなわち、速行心刹那の内において形成される。

速行心刹那の中の思を特に業と呼ぶ。

しかし《発趣論》(Paṭṭhāna)の業縁の章では以下の様に言う:

速行刹那の中の名法のエネルギー(業力)もまた業と言う、と。

この事を覚えておいて頂きたい。

 

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」10-2(290/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

仏陀は続けて開示して言う:

「比丘たちよ。

あなた方は『行図』と呼ばれる図書を見たことがありますか?

「見たことがあります、世尊。」

「比丘たちよ。

『行図』と呼ばれる図書は、色々な内容がありますが、それもまた心いよって設計されたものです。そして、心自体は、『行図』と呼ばれる図書より更に内容が豊富です」

ここでいう「図書」とは「行脚図」の事を指す。

サンカブラフミン(SaṅkhaBrahmin)はこの種の図を持って、四方に行脚し、彼らの教法を宣揚したため、この種の図を「行脚図」または「行図」と呼ぶのである。

サンカブラフミンは、異教の婆羅門の一派であり、彼らは布の上に、善趣と悪趣の各種の図案を描いて、成功と失敗の説明をするのに用いたのである。

彼らは図画を展示して人々に見せながら以下の様に説明する:

「もし、人がこの様な行為をするならば、この様な結果を得る;

もし、あの様な行為をするならば、あの様な結果を得る。」

これらの図書は、非常に精緻であるがしかし、心はこれらの図書より尚精緻である、というのも、彼らは先にどの様なものを布の上に描き出すかを考えて後に初めて、考えに基づいて、それらの図画を描きだすからである。

ある時には、彼らは、太陽よりもなお輝くルビーを描きたいと思うかもしれないが、しかし、それは想像することができるだけであって、実際には描きだすことは、できはできない。

このことから、心は、布の上に描かれた図よりも尚、多様であることあ分かる。

故に、仏陀は言う:

「『行図』と呼ばれる図画の、その多様性は、心によって設計されたものである。そして、心はその『行図』と呼ばれる図画よりなお、多様である。」

「故に、比丘たちよ。

常に、以下の様に己自身の心をして反省せしめなければならない:

『長い間、この心は、常に貪、瞋、痴によって汚染されてきた』

比丘たちよ。

衆生は、心の煩悩によって、汚染される;

衆生は、心の清浄を通して、浄化される。

比丘たちよ。

私は曾て、その他の衆生界が、畜生界ほど多様化しているのを見たことがない。たとえ、畜生界のあれらの衆生もまた、彼ら自身を多様化せしめたのであるが;

しかしながら、心は。畜生界の。あれら衆生に比べても、なお多様化しているのである。」

(+上記の)要点は、以下の通りである。

 畜生界の衆生の多様化は、彼らが、畜生に生まれ変わることになった原因である過去の業の多様化を反映している。そして、業の多様化とは、愛欲(taṇhā)心所の多様化が根源である。

鶉、シャコ(=雉の一種)などの畜生は、過去世において種々の業を造(ナ)した時、以下の様に思ったわけではない:

「我々は、この様に多様化しよう」と。

しかし、過去のある種の悪業の業力が熟した時、彼らは相見合う鶉、シャコ等の物種(yoni)の中に生まれる事となった。

彼らの外見と形態、生活方式などの違いは、みな物種からきている。

ある一つの物種に生まれ変わる衆生は、当該の物種に相見合って、それぞれ多様化して、違いが生じる。

こうしたことから、違いは、物痰の中において形成され、物種は過去の業を映し出す、と言える。

たとえば、もしあなたが、過去において、人間に生まれる善業を累積したならば、その善業の業力が熟する時、あなたは相見合う所の人類という物種の中に生まれ、かつ、その物種によって五取蘊が生じる。

これが、父母と子女の間に、通常、相似合う所がある、という理由である。

同様に、もし、あなたが過去世において、鶉になる様な悪業を累積したならば、当該の悪業の業力が熟した時、あなたは相見合う所の、鶉の物種お中に生まれ変わる様に促され、当該の物種によって五取蘊が生じる。

こうしたことから、(+存在の差異)違いは、物種の中において形成され、物種は、過去の業を反映している、のだと言える。

あなたが過去世において善業を累積し、もし、未来世において、感官の楽しさを享受したいと強烈に欲するならば、その業力が、今世の果報を生じる時、あなたは感官の楽しさを享受したいという強烈な欲望の下、貪欲的な性格を持った人間になる。

同様の因果関係は、瞋恨の性格の人、愚痴(=愚かで無知)な性格の人、驕慢な性格の人、嫉妬深い性格の人などに応用することができる。

あなたが過去世において、善業を累積する時、たとえば、仏、法、僧(=サンガ)の三宝、業果の法則等に対して、強固な信心(=確信)のある時、その業力が今世の果報を生じる時、あなたには信心(=確信)が充満し、信心(=確信)の性格を持つ人間になるのである。

あなたが過去世において、善業を累積する時、もし、その善業に強力で力のある慈愛が伴う時、または慈心ジャーナに取り巻かれる時、その業力は、今世において果報を生じる時、あなたは慈愛に満ちた、仁慈の性格を持つ人間になるのである。

あなたが過去世において、善業を累積する時、もし、その善業が強くて力のある智慧(たとえば、観智)によって取り巻かれている時、その業力が今世において果報を生じる時、あなたは利根の、智慧のある性格の人間になる。

また、もし、行捨智(saṅkhārūpekkhañāṇa)の様な、強い観智の業力が、今世の果報を生じたならば、あなたは涅槃を証悟するための強くて力のある、鋭敏な智慧を具備する(+人間になる)。そして、止禅と観禅を修習するならば、あなたは快速に四聖諦を徹底的に悟ることができる。

この様に原因で、仏陀は以下の様に開示して言う:

「故に、比丘たちよ。

常に以下の様に己自身の心を反省せしめなければならない:

『長い間、この心は、常に、貪、瞋、愚によって汚染され続けてきた。』

比丘たちよ。

衆生は煩悩によって心を汚染する;

衆生は心の清浄を通して浄化される』。

(10-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」10-1(288/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

Ⅶ 皮帯(=皮ベルト、皮の首輪、以下同様)束縛經(二)

(Gaddulabaddha Sutta 2)

私はこの様に聞きました。

ある時、世尊が舎衛城に留まっていた時の事。

世尊は比丘たちに以下の様に話した:

「比丘たちよ。

生死輪廻の源は察知することができない。

生死輪廻の中において、幾度となく流転する衆生は、無明に覆われ、愛欲に束縛された起点は、知る事ができない。

比丘たちよ。

ちょうど皮帯(=皮の首輪)で束縛された犬が、硬い切り株または柱につながれて、彼が歩く時は、その切り株かまたは柱に沿って歩くしかない;

立つ時も、彼はその切り株かまたは柱に沿って立つ;

坐る時も、彼はその切り株かまたは柱に沿って座る;

横になる時も、彼はその切り株または柱に沿って横になる(+様に)。

同様に、比丘たちよ。

いまだ法を聞いたことのない凡夫は、色を斯くの如くに思い成す:

『これは私のものである;

これは私である;

これは私の自我である(=これは私の本来の自己である)。』

歩く時、彼はこの五取蘊に沿って歩き、

立つ時、彼はこの五取蘊に沿って立ち、

坐る時、彼はこの五取蘊に沿って座り、

横になる時、彼はこの五取蘊に沿って横になる。

故に、比丘たちよ。

常に、己自身の心を以下の様に反省せしめなければならない:

『長い間、この心は、常に、貪、瞋、痴によって汚染されて来た。』と。

比丘たちよ。

衆生は心の煩悩によって、汚染される;

衆生は心の清浄を通して、浄化される。」

当該の經の中において、仏陀はまたこの様に、犬(+の状況)を通して、法を聞いたことのない凡夫を比喩している:

「比丘たちよ。

ちょうど皮帯(=皮の首輪)で束縛された犬が、硬い切り株または端につながれている(+様に)。」

その犬は、皮帯(=皮の首輪)でもって、硬い切り株または柱につながれていて、逃げることができない。

同様に、もし、法を聞いたことがない凡夫に、強力な身見(sakkāyadiṭṭhi、薩迦耶見:個体、身体があると思う邪見)と愛欲のある時、彼は生死輪廻から逃げることができない。

なぜであるか?

というのも、彼は身見の皮帯によって束縛され、愛欲の縄によって、五取蘊の硬い柱に結わえつけられているが故に。

法を聞いたことのない凡夫が、五蘊を「これは私の私である(=これは本来の自己である)」と見做す時、これは我に執着しているのだと言える;

彼が五蘊を「これは私のものである」と見做す時、これは愛欲の執である;

彼が五蘊を「これは私である」と見做す時、これは傲慢の執である。

無明は、通常、この三種類の執着と同時に生起する。

無明と身見が彼の慧眼を覆い隠し、彼をして如実に諸法を照見できない様にする。

身見は、彼の首に巻きついた皮の首輪の様であり;

愛欲は縄の様であり、

彼を五取蘊の柱に縛り付ける。

身見、愛欲と驕慢という、これらの煩悩の影響の下、彼は善業と悪業を造(ナ)す。

これら、煩悩を根源とする、業力の潜在的な力は、臨終の後に、次の一世の生命を生じせしめる事ができる。

新しい生命が生じた後、老、病、死と愁、悲、憂、悩が、再び生じてくる故に、彼は死輪廻から解脱することができない。

故に、仏陀は言う:

「比丘たちよ。

常に、己自身の心をして以下の様に反省しなければならない;

『長い間、この心は、常に、貪、瞋、痴の汚染を受けて来た』と。

比丘たちよ。

衆生の心は、煩悩によって汚染される;

衆生の心は、清浄を通して浄化される。」

(10-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」9-2(286/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

ここにおいて、仏陀は20種類の薩迦耶見(sakkāyadiṭṭhi、身見)すなわち、ある個体(=個人)が存在していると考える邪見を解説した。

私は、この20種類の薩迦耶見について解説したいと思う。

色蘊に関しては、四種類の薩迦耶見がある:

1、彼らは、色を、我であると認定する;

色と我は同じである;

我はすなわち色であり、色はすなわち我である。

註釈では、比喩でもって、この事を以下の様に解説する;

蝋燭の光と蝋燭の火は同じものである;

光とは火であり、火とは光である。

同様に、ある種の、我があると信じている人々は、我は色であり、色は我であると考える;

色と我は同じであると思うのである。

2、我は色を有する;

ここにおいて名(精神)は我であり、我は色とは異なる(+と思う)。

彼は、受蘊、想蘊、行蘊及び識蘊は我である、

この四種類の名蘊が色法を有する、と思うのである。

註釈では以下の様に比喩で以て説明する:

樹木と樹木の影は異なる;樹木は樹木、樹木の影は影;

樹木は影を擁している。同様に、我(名法)が樹木であり;

色法は樹木の影の様である。

こうしたことから、我は我、色はまた別の事柄であり、我が色を擁するのである。

3、色が我の中に存在している;

彼らは、名法が我であり、色法は名法の中にあると考える。

註釈では、以下の様な比喩で説明する:

花には香があり、香は花の中に存在している。

同様に、我(名法)は花の様にであり、色法は香の様である;

色法が我の中において存在している。

4、我は色の中にある;

彼らは名法を我であると考えて、この我は色法の中において存在するとする。

註釈では以下の様な比喩で説明する:

箱の中にルビーがあるとして、ルビーは箱の中に存在する。

同様に、色法は箱の様であり、我(名法)はルビーの様である:

我は色法の中において存在する。

 以上が四種類の比喩である:

(一)蝋燭の光と蝋燭の火、

(二)樹木と樹木の影、

(三)花と花の香、

(四)箱と宝石。

これは、《阿毘達摩蔵》の註釈である《殊勝義註》(Aṭṭhasālinī)の解説である。

これらは色蘊に関する、四種類の薩迦耶見である。

受蘊、想蘊、行蘊と識蘊もまた、それぞれ四種類の薩迦耶見があるが、その状況に関しては、類推する事。

この様に、合計20種類の薩迦耶見がある。

当該の經の中と、第二部の《皮帯束縛經》の中において、仏陀は、如何にして、20種類の薩迦耶見を断じ除くのかを解説している、というのも、この12種類の薩迦耶見は一切の邪見の中においての基礎であるが故に。

薩迦耶見に依存して初めて、種々の邪見、たとえば、無作用見(akiriyadiṭṭhi)、無因見(ahetukadiṭṭhi)、空無見(natthikadiṭṭhi)が生起する。

1、無作用見:善法と不善法が作用を生じる事を否定する。

2、無因見:果報の因を否定する。

3、空無見:因が果を生じることを否定する。

この三種類のjy軒は業因と果報を否定するものである。

当該の經の中において、仏陀は犬でもって以下の様に比喩を述べている:

「ちょうど皮のベルトでつながれた犬が、硬い木の切り株、または柱につながれているとする。

彼は、木の根か柱の周りをぐるぐると回りつづけるしかないのである。」

皮のベルト(=首輪、以下同様)で束縛されているその犬は、人によって縄でもって、硬い木の切り株か柱につながれていて、故に逃げることができない。

同様に、もし、凡夫に、強力な無明、薩迦耶見と愛欲があれば、生死輪廻から逃れることができない。

というのも、この三種類の煩悩に、彼は束縛されているが故に。

無明と薩迦耶見が彼の慧眼を覆い隠し、彼をして、如実に、究極法を見る事ができない。

薩迦耶見は、ちょうど彼の首に巻きついた皮のベルト(=首輪、以下同様)の様である;

愛欲は縄の様であって、彼をして強固に切り株か、柱に縛り付けてている;

五取蘊は、その強固な切り株か、柱の様である。

無明と愛欲は、彼に善行か悪行を実践するよう促す;

それらの行は業と呼ぶ。

いまだ、無明と愛欲がありさえすれば、死亡の後、熟した業力は、次の一世の結生識を生じせしめる。

結生識があれば、再び、老、病、死があり、愁、悲、苦、憂、悩もまた生じてくるのであり、こうしたことから、彼は生死輪廻から逃れることができないのである。

例を挙げて説明する:

たとえば、ある人が、仏像に蝋燭の光を供養して、来世は比丘になりたいと発願したとする。

 仏陀の教導した《阿毘達摩蔵》によると、実際には、真実なる比丘というのは存在せず、ただ名色法(精神と物質)が存在するだけである。

彼が、比丘の命に執着するのは取である。

無明、愛、取に依存した事によって、彼は蝋燭の光を仏像に供養したが、これは一種の善業であり、行と業力が含まれる。

この様に、五種類の因がある、すなわち、無明、愛、取、行及び業である。

もし、彼が縁起を修行することができたならば、仏像に蝋燭の火を供養する時に、34個の名法がある事を照見することができる。

これらの名法は、生起するや否や即刻壊滅するため、恒常なる行法というのは存在しない。

しかし、それらはある種の潜在的なエネルギーを残す。

そのエネルギーが熟した時、彼が以前、発願した通りに、比丘の五蘊の生命が生じるが、この種のエネルギーを業力と呼ぶ。

こうしたことから、五種類の因が存在しさえすれば、生死輪は継続し続けるために、彼は痛苦から逃れることができないのである。

仏陀は続けて開示して言う:

「しかしながら、比丘たちよ。

法を善く聞く聖弟子は聖者に会った時、聖者の法において、善くて巧みに伏する。彼は色は我であるとか、または我に色が有るとか、または色が我の中にあるとか、または我が色の中にあるなどと、認めることがない。

彼は、受、想、行は我であると認めないし、識が我であるとか、または我に識があるとかあ、または識が我の中にあるとか、または我が識の中にあるとか(+の考え)を認めない。

彼は、二度と再び、色から色へ、受から受へ、想から想へ、行から行へ、識から識へ、常に走り続けて、流転することがない。

彼はもはや、その中で走り続け、流転することはなく、故に彼は色から脱離し、受から脱離し、想から脱離し、行から脱離し、識から脱離する。

私は言う、彼は生、老、死から解脱し、愁、悲、苦、憂、悩から解脱し、痛苦から解脱する。」

どの様にすれば、痛苦から解脱することができるのか?

我々は、第二部《皮帯束縛經》の後段を研究しようと思う。

仏陀は、その經の中において解説して言う:

異なる業は、衆生に種々の違いを齎す、と。

(10-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

薩迦耶見薩迦耶見

 

 

 

 

般若の独り言~翻訳の終点

パオ Sayadaw 著「顕正法蔵」の拙訳を、お読み頂きまして、ありがとうございます。

「顕正法蔵」の翻訳は、あと残す所、実質、130頁程になりました(各種の表は<菩提樹文庫>管理人様に制作して頂く事になっています)。

後一か月か二か月程で、終了しますでしょうか。

この翻訳が終わりましたら、私もいよいよ、本当に、

仏教書の翻訳はこれにて終了、に致したいと思っています・・・皆様にご紹介したい、よい仏教書は、まだまだ手元に多くありますが・・・どこかで区切りをつけませんと、キリがなく・・・。

翻訳は無償の法施、善意のボランティアとはいえ、重い責任が伴うと同時に、日々、パソコンの前にて、相当の時間を費やすことになります。

パオ Sayadaw のおっしゃる通り、修行第一。

これからは、そんな生活を送りたいと思います。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Paññādhika Sayalay般若精舎>

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」9-1(283/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

Ⅵ 皮帯(=革ベルト、皮の首輪、以下同様)束縛經(一)

(Gaddulabaddha Sutta 1)

《皮帯束縛經》は、二部存在している。この二部とも、我々は研究したいと思う。

第一部の《皮帯束縛經》の經文は、以下の様に始まる:

ある時、世尊が舎衛城に留まっていた。

その時、世尊は比丘たちに述べた:

「比丘たちよ。

生死輪廻の源は知ることができない。

生死輪廻の中において、何度となく流転する衆生の、その、無明によって覆われ、愛欲によって束縛される起点は、知る事が難しい。」

業力は、唯一、無明(avijjā)と愛欲(taṇhā)の支えの下、初めて結果を生じる;

もし、無明と愛欲がないならば、業力は、何等の果報も生じることができない。

故に、仏陀はこの經の中において、生死輪廻(saṁsāra)の主因は、無明と愛欲であると、教導して言う。

「無明」は、真実に男性、女性などが存在していると、誤って認識しることである。

仏陀の教えに基づけば、究極名色法(精神と物質)だけが存在しており、真実の弾性、女性などは存在しないのである。

もし、人が以下の様に思ったとする:

「この人は男性、女性、男児、女児・・・」

この種の錯覚は、無明である。

もし、系統的に四界分別観を修行するならば、名前を色聚と呼ぶ所の微粒子を見ることができる。

この種の色聚の微粒子を分析した後、合計28種類の色法(rūpa)を照見することができる。またこの他に、色法(物質現象)に依存して生起する所の名法(精神現象)も存在している。

こうしたことから、究極諦(勝義諦)に基づいて言えば、ただ名色法のみが存在しているのである。

恒常なる弾性、女性、男児、女児などは存在しておら、故に男性が、女性が、真実に存在していると思う事は、すなわち無明である。

無明の故に、これらの対象に執着する所の愛欲は、無明に依存して生起するのだと言える。

無明と愛欲の支援の下、熟した業力は、善または悪の果報を、結成することができる。

これが、なぜ仏陀が、当該の經の中において、以下の様にいうのか、という理由である:

「生死輪廻の中において、幾度となく流転する衆生は、無明に覆われ、愛欲に覆われて束縛される起点を知るのが難しい」

仏陀は続けて開示して言う:

「比丘たちよ。

茫洋たる大海には、涸れあがる時があり、水が一滴も存在しない時があるが、しかし、私は言うが、無明に覆われ、愛欲に束縛されて生死輪廻の中にいて、幾度となく流転する衆生、彼らの痛苦は尽きる時がない。」

仏教の道理に基づけば、世界は最後には、火、水、または風によって壊滅させられる、という。

仏陀は、当該の經の中において、世界が火によって壊滅する状況を描写している。

その時、益々多くの太陽が出現する。

通常、四悪道の衆生は、死亡すると、人間界または欲界天に生まれ変わる。

天空に五個の太陽が出現する時、茫洋たる大海は、涸れあがり、一滴の水もなくなってしまう。

その時、通常は、欲界の衆生は死亡してしまう;

彼らは死亡する前に修行の精進して、ジャーナに到達する。

ジャーナに依存するが故に、彼らは梵天界に生まれ変わる。

こうしたことから、仏陀は開示して、その時になってもなお、生死輪廻が終わることはない(+と言う)ーー

「しかし、私は言う。無明に覆われ、愛欲に束縛されて、幾度となく生死輪廻の中において流転する衆生、彼らの痛苦は、尽きる時がない」。

六個目の太陽が出現する時、山々の王ーー須弥山ーーもまた焼け、崩壊して、微塵も存在しなくなってしまう。

その時、無明と愛欲を基礎として、ジャーナの業力は、衆生をして、梵天界に生まれせしめ、もう一つ別の生命の流転が始まる。

故に、仏陀は以下の様に開示して言うする:

「しかし、私は言う。無明に覆われ、愛欲に束縛されて、幾度となく生死輪廻の中において流転する衆生、彼らの痛苦は、尽きる時がない」。

その後、仏陀は開示して言う:

「比丘たちよ。

広々とした大地は、焼かれ、破壊されて寸土も存在しなくなる。

しかし、私は言う。無明に覆われ、愛欲に束縛されて、幾度となく生死輪廻の中において流転する衆生、彼らの痛苦は、尽きる時がない」。

 七個目の太陽が出現する時、広々とした大地もまた焼かれ、崩壊して、寸土も存在しなくなってしまう。

その時、無明と愛欲を基礎として、ジャーナの業力は、衆生をして、梵天界に生まれせしめ、もう一つ別の生命の流転が始まる。

故に、仏陀は以下の様に開示して言う:

「しかし、私は言う。無明に覆われ、愛欲に束縛されて、幾度となく生死輪廻の中において流転する衆生、彼らの痛苦は、尽きる時がない」。

その後、仏陀は比喩でもって開示して言う:

「比丘たちよ。

 ちょうど皮のベルト(=首輪、以下同様)で束縛される犬が、硬い切り株または柱につながれる時、彼はただ、切り株の周りか、柱の周りをぐるぐると回るしか方法がない。

同様に、比丘たちよ。

法を聞いたことのない凡夫は、聖者に会ったことがなく、聖者の法(四聖諦)において、善くて巧みに調伏したことがない;

善士に会ったことがなく、善士の法において、善くて巧みに調伏したことがない;彼は思う:

1、色は私である、または

2、私は色である、または

3、色は私の中にある、または

4、私は色の中にある。

彼は受は我であると思い・・・彼は想を我であると思い・・・彼は行を我であると思い・・・彼は識を我であると思い・・・または我には識があると思うかまたは、識が我の中にあると思うか、または我が識の中にあると思う。

彼は色から色へ、受から受へ、想から想へ、行から行へ、識から識へ、常に走り回って、流転する。

彼が、その中において常に奔走し、流転する時、彼は色から離脱することができず、受から離脱することができず、想から離脱することができず、行から離脱することができず、識から離脱することができない。

私は言う。

彼は、生、老、死から解脱することができず、愁、悲、苦、憂、悩から解脱することができず、痛苦から解脱することができない。」

(9-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>