Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵仏教談義~19>酸っぱい葡萄

去年の今頃、理研の小保方氏の、ネーチャーへの投稿論文がでたらめであったという問題が発覚した時、知人が「彼女は理研を浄化しにきた人」と言っていました。トラブル発覚後、理研が組織改編するだろうから、という事なのでしょう。こういう言説は、何か納得するようでいて、しかし、何らかの違和感があって、長い間、言葉にできずモヤモヤしていました。

先日、禅宗系の尼僧の著書の抜粋を読んでいたら、似たようなロジックに出くわしました。

ある少年(A)が難関校(高校)の受験に失敗した。友人(自分より成績が下)が合格したのが悔しくてたまらない。しかし、友人が彼に「大丈夫?」とやさしく声をかけてくれたら、Aはたちまち、「友人の合格を祝ってあげられない器の小さい自分は落ちて当然」「神様はそのことを知らせる為に僕を不合格にしたんだ」という事に目覚めた、とあったのですけど・・・。

私も、論理型人間でなく感情型人間なので、こういう話を聞くと、ついほろりと感動してしまうのですけれど・・・昨夜、よ~~く考えてみたんです。

Aが不合格だったのは、ただただ、筆記試験の成績が悪かったからですよね、当時(昔)、高校入試に面接試験はなかったのだから・・・人格で落とされたわけじゃない。

それがいつの間にか<俺のような器量の小さいヤツは元々合格する資格なんかなかったんだ>という理論にすりかえられている。これってスッパイ葡萄の狐君じゃないですか?(本来なら、学校の模擬テストが高得点でも、受験の時に実力を発揮できない事もある、とするべきですよね)。

Aが大人になってから、難関校のあの高校に行かなくても、一つランク下の高校でいい友達ができたのがよかったとか、高校では牛尾でなく鶏頭になって、結局はいい大学に行ったので、がんばって勉強したのがよかったとかの回想なら分かるのですが、友人の一言で<神様が不合格にしてくれたんだ!>まで飛躍すると、ちょっとアブナイ。電波系、かな??(この辺が、<宗教やっている人はちょっとヘン>って言われる原因で、市井の民の常識・直感って、案外的を得ているのかも知れません)。。

追補:原因と結果の関係を見極めるのは本当に難しいと思います。不幸が続くと、神様のせいにしたい(本当に神様と対話できる人がいるらしいことは認めますが・・・)。

心ってものすごく巧妙に嘘をつく。偽善を怒って見せるパフォーマンス自体が偽善だった、みたいな・・・何重にも嘘をつきます、自分自身に。

悲しいですが本当です。