Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

パオ・セヤドー問答集~#346~#352問答(16)問16-66~16-72<縁起編>7編。

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#346-151010

問16-66 3月21日の法話で、禅師は言いました:修行者が未来縁起法を修行する時、未来のどこかの世の一切の名色の諸行の滅尽を、観察しなければならない、と。という事は、どこかの世で必ず阿羅漢果及び無余涅槃に入る事を証するだろう事を了知する旨を意味しますが、この段階に来たすべての修行者は、この事を必ず観察できる、という事でしょうか?

答16-66 はい、そうです。というのも、その後で修行する生滅随観智の段階では、一人一人の修行者は全員必ず、諸行法の二つの生滅を観照しなければならないからです。すなわち、刹那生滅(khaṇato udayabbaya)と因縁生滅(paccayato  udayabbaya)です。

因縁の観照について、私は色法を例に、皆さんに説明したいと思います。まず、縁起第五法によって色法の因縁生を識別し、過去を見て、あなたの前世における臨終の時の一瞬に引き起こされた今世の業生色法の過去の、五つの因を照見しなければなりません。あなたは、以下の項目を見るでしょう:

  1. 無明の生起が業生色法の生起を引き起こす。
  2. (渇)愛の生起が業生色法の生起を引き起こす。
  3. 取の生起が業生色法の生起を引き起こす。
  4. 行の生起が業生色法の生起を引き起こす。
  5. 業の生起が業生色法の生起を引き起こす。

その後にあなたは、心生色法、時節生色法と食生色法の因縁生を照見しなければなりません。

6、心が心生色法の生起を引き起こす事。

7、時節が時節生色法の生起を引き起こす事。

8、食物が食生色法の生起を引き起こす事。

名色法の因縁による生の照見が出来るようになった後、続いて、その因縁による滅を照見しなければなりません。色法を例にとると、縁起第五法によって、色法の因縁の滅を照見し、あなたが阿羅漢果を証悟するであろうその一世まで、未来に向かって観察します。あなたが阿羅漢果を証悟した時、すべての煩悩はなくなります。あなたは、その最後の世が終るのを見る時、すべての行法が無くなるのを照見します。これは、あなたがあなたの般涅槃を直接照見しているのであり、その時、新しい名法または色法は、二度と生起する事はありません。あなたが見るのは:

  1. 無明が消滅したので、業生色法の消滅が生じる。
  2. (渇)愛が消滅したので、業生色法の消滅が生じる。
  3. 取が消滅したので、業生色法の消滅が生じる。
  4. 行が消滅したので、業生色法の消滅が生じる。
  5. 業が消滅したので、業生色法の消滅が生じる。
  6. その後にあなたは心生色法、時節生色法と食生色法の因縁の滅を照見しなければなりません。
  7. 心が消滅したので、心生色法が消滅する。
  8. 時節が消滅したので、時節生色法が消滅する。
  9. 食物が消滅したので、食生色法が消滅する。

その後にあなたは因縁による生と、因縁による滅の両方を組み合わせて、因縁の生滅を観照します。

もし、あなたが、一切の煩悩を断滅し、阿羅漢果を証悟する、自分の最後の一世を観ずる事ができないのならば、因縁による滅と因縁による生滅を観照する事はできず、ただ因縁による生を見るのみ、という事になります。

故に、自分の最後の一世を観るのは、あなたにとって必要な修行という事になります。

 

#347-151010

問16-67 禅師は法話で、修行者が、ある段階の観智に到達した時、彼が未来において、いつ阿羅漢果を証悟できるか、正確な時間を見る事ができると言いました。これはその人が、いつ阿羅漢果を証悟するか、宿命として決まっていると言う事でしょうか?もし、そうであれば、自分がいつ阿羅漢になるかを見てしまった後、更に勇猛果敢に修行に精進し、又その他の善行を行っても、その波羅蜜を成熟させて、もっと早く阿羅漢果位を証悟する事はできない、という事ではないでしょうか?

答16-67 7部の《清浄道論》の中の《双論》(Yamaka)で、仏陀は二種類の「最後有者」(pacchimabhavika)があると述べた、と書かれています。すなわち、最後の生が尽きた人という意味です。その中の一種は、絶対的最後有者で、もう一種は非決定的最後有者です。

所謂最後有者とは、その一世で阿羅漢果を証悟する人で、たとえばシャーリプトラ尊者、モッガラーナ尊者、両家尊者(Bakkula Thera)、僧吉帝尊者(Saṅkicca Thera)

です。

両家尊者がまだ幼児であった時、ある吉日に、子守が沐浴の為に彼を河に連れて行き、不注意から河に落としてしまいました。彼は河を流れていき、魚に呑み込まれてしまいました。その魚は波羅奈市まで泳いで行きました。そこで魚は漁師に捕まり、富豪の妻がその魚を買いました。その魚を見た妻は好奇心から、自分で料理しようと思いました。自分の手で魚の腹を割いてみると、お腹には金色に光る幼児がいるのを発見しました。不妊で悩んでいた彼女は、喜んで思いました:「ようやく息子が出来ました」。両家尊者は、魚に呑まれたのに生きていられたのは、彼がこの一生で、必ず阿羅漢道智を証悟する事になっていたからです。

僧吉帝尊者は、彼がまだ母親の胎内にいた時、母親が死んでしまいました。人々は彼女の遺体を火葬用の薪の上において、火葬しようとしただけでなく、サスで刺しました。胎児は目の角を刺されて泣き声を上げました。そこにいた人々は、胎児は生きていると確信し、死体を下して、お腹を開きました。彼らは胎児を祖母に預けて養育してもらいました。彼は7歳の時に出家してサーマネラになり、阿羅漢道果と四無礙解智を証悟しました。僧吉帝尊者が、母親が死んだ後も胎内で死なずにすんだのは、彼がこの一生で、必ず阿羅漢道智を証悟する事になっていたからです。

もう一つの「最後有者」は、変化する事がありえます。たとえば、大財長者子(Mahādhanasetthiputta)です。有る時、仏陀はある乞食の夫婦をみて、微笑したので、アーナンダ尊者が微笑の訳を聞きました。仏陀は彼に言いました:あの乞食の夫婦の内、夫は大財長者子といい、もし、彼らが早くから仏法の修行を始めていたら、夫は阿羅漢果を、妻は阿那含道果を証悟する事ができました。もし、中年になってから修行したならば、夫は阿那含道果を、妻は斯陀含道果を証悟する事ができました。もし、晩年の初期に仏法を修行したならば、夫は斯陀含道果を、妻は須陀洹道果を証悟する事ができました。しかし、彼らは蹉跌して乞食に零落し、今となっては体が弱くなって修行が出来ないのです。彼らは仏法の修行のチャンスを逃してしまいましたから、何らの道果も証悟する事ができないのです、と。

もう一人の例は、アジャセ王(King Ajãtasattu)です。彼は本来、十分な善根を具備していましたので、彼は仏陀の《沙門果経》(Sammaññaphala Sutta)を聞いた時、須陀洹を証悟できたはずなのですが、しかし、彼は道果を得る事ができませんでした。というのも、彼は父親を殺す前に仏陀に出会えなかったからです。

レディ長老の解釈では、大財長者子夫妻とアジャセ王は、証悟する事のできる潜在的な能力を持っていたのは、十分に強い智慧の種子を持っていたのが原因ですが、ただ、十分に強い善行の種子を持っていなかった為に、彼らは適切な時期に仏陀に出会う事ができず、生死輪廻から解脱するチャンスを逃してしまいました。

このように、ある種の修行者にとって、未来のある一生において、阿羅漢果を証悟する事は確定されている事ですが、ある種の修行者にとっては、決定的という訳ではなく、状況次第で変化してしまうのです。故に、修行者は、未来世の名色法を無常・苦・無我として観照し、それらを厭離する厭離随観智を育成しなければなりません。この種の観智が強ければ強い程、修行者は早期に阿羅漢果を証悟する事ができ、今生にでも悟れるかも知れません。たとえば、ある種の修行者は、縁起の修行をする時、自分にはまだ4又は5個の未来世がある事を観ますが、もう少しの期間、観禅(vipassanā)の修行をすると、自分の未来世が1個か2個しかない事が分かってきます。この種の人にとっては、未来は因縁によって、また変化するだろうという事が言えます。

#348-151010

問16-68 <普通阿羅漢>になりたいと希望していて、未来の五世から10世またはそれ以上の世まで観察しているのに、最後の世を観察する事ができません。その主な原因は何ですか?

答16-68 一つの可能性としては、彼は過去仏の時代において、授記を受けており、非常に長い時間を経た後に、証悟する事が決まっている時、必要とされる時間が、あなたの言っている時間より長いから、という事です。もう一つの可能性は、彼は授記を受けてはいないけれど、未来の仏陀の時代に涅槃を証悟すると発願している事。たとえば、2000人の普通阿羅漢比丘尼とアショーダラは同じ日に般涅槃しましたが、それは燃灯仏の時代に、彼女達は、釈迦牟尼仏の教化の時代に生死輪廻を解脱したいと発願したからです。普通阿羅漢になるには、四阿僧祇劫と十万大劫程長期的な時間、波羅蜜を積む必要はないですが、しかし、当該の願によって、燃灯仏から釈迦牟尼仏の時代まで、彼女達はずっと生死輪廻の中で流転していました;彼女は特段授記を受けたわけでもなく、ただ発願しただけです。故に、もし、当該の修行者が、かつて未来仏の教化の時代に涅槃を証悟したいと発願したのならば、彼はまだ多くの世を輪廻しなければならないでしょう。

#349-151010

問16-69 観察を通して、未来の何世後に無学果を証する事が分かったならば、やはり(他の修行者と同じように)過去のいくつかの世、たとえば未来の十世を観、過去の10世を観る必要がありますか?

答16-69 《相応部・縁経》(Saṁyutta Nikāya、Paccaya Sutta)の中で、仏陀は、我々は、過去の五蘊の因を必ず観照しなければならない、と言っています。注釈書《分別論》の《迷惑氷消》においても、比丘は、過去世及び未来世の中において、ただ各種の因果のみが存在している事を、観照しなければならないと言っています。故に、過去世の五蘊の因縁を観照する事は、必要なのです;ただ、どれだけの数の世を観るかについての規定は、ありません。

過去世の五蘊の因縁を観照しなければならない理由は、いくつかあります。それは、たとえば、過去世への疑いを取り除く、過去世の五蘊への執着を取り除く、過去世に蓄積した善行と智慧の種子を探す、等です。私は、修行者が過去のどの世において、涅槃を証悟する事のできる智慧の種子を蓄積したかを観るように指導しますが、どれくらいの世を観察しなければならないかは、人によって異なります。

#350-151010

問16-70 禅師はよく仏像に花を供えて、比丘か比丘尼になるように発願しなさいと言います。しかしながら、もし花を供えて涅槃を証悟する事を発願したならば、それは無明であり、貪愛でありますか?

答16-70 涅槃を証悟したいと発願するのは善欲(sammãchanda正欲)であって、無明とか貪愛ではありません。そのような善欲は、あなたを引き続き輪廻させるようにします。たとえば、あなたが仏像に花を供える時、ただ涅槃を証悟したいだけなのだと言って発願するならば、その時、あなたは無明、愛、取に囲まれている訳ではないですが、ただ、この三種類の煩悩は、潜在的な形態であなたの名色相続流に存在する事になります。もし、その善業の業力があなたの臨終の時に熟したならば、業(仏像に花を供える行為)、業相(仏像または花)と趣相(来世の生まれ変わり先の相)という、この三種類の目標の内の一つが、あなたの心の中に出現します。その時、無明、渇愛、取という三種類の煩悩もまたあなたの心の中に生起します。どうしてか?あなたはいまだ阿羅漢果を証悟していないので、死後、涅槃に入る事はできず、どうしても、どこかの場所に生まれ変わらなければならないからです。その時、あなたの心は、ある傾向を示します――人になるか、比丘、比丘尼になるか、天神になるかなどです。この傾向が生起すると、あなたの内心に無明、渇愛、取が生起します。たとえばあなたは天神になりたいという傾向を持つとき、天神の存在を信じるのは無明であり、天神の生命に執着するのは渇愛であり、渇愛の傾向が何度も重複して生起すると、取と言います。無明、渇愛、取が生起する事によって、あなたには、来世の結生が生じます。

#351-151010

問16-71 《長部・大因縁経》の中で、「識は名色の縁であり、名色は識の縁である」というのはどういう意味ですか?

答16-71 縁起法の中で、仏陀は指導して言いました:「識は名色の縁であり、名色は識の縁である」と。「識は名色の縁である」というのは、識が生起する事によって、名色も生起すると言う事です。ここでの「識」は心を指しており、「名」は心所、「色」は心生色を指しています。心が生起するが故に、心所が生起し、心が生起するが故に、心生色が生起する。故に、「識が生起するが故に、名色が生起する」と言います(識縁名色)。あなたが心生色を照見出来る時、この事をはっきりと了知するでしょう。

次に「名色は識の縁である」ですが、名色が生起するが故に、識が生起します。ここで言う「名」は心所を指し、「色」は依処色の事で、心生色の事ではありません。五蘊世界の有情について言えば、もし、依処色がなければ、識は生起する事ができません。故に、依処色は識の因なのです。心と心所は、お互いに因果となりますが、もし心所がなければ、識(心)も生起する事ができません。故に、心所もまた識の因となります。因果関係から五蘊を観照する時、あなたは四種類の名蘊の間の因果関係を照見する必要があります。仏陀は《発趣論》の中で、受、想、行、識というこの四種類の名蘊は相互に因果となっていると、言っています。その中の一つを因と見なすならば、その時、残りの3個は果となります。その中の二つを因と見なすならば、その時、残りの2個は果となります。その中の三つを因と見なすならば、その時、残りの1個は果となります。もし名(心所:すなわち、受、想、行というこの三つの蘊)がなければ、識蘊は生起する事ができません。故に、名色は皆、識の因であり、これが「名色が生起するが故に、識が生起する」(名色縁起)の意味です。

#352-151010

問16-72 段食、触食、思食と識食というこの四種は、名色法とどのような関係になりますか?縁起法を修行する時、どのように四食を観じますか?

答16-72 ここでは、私は例を上げて説明しましょう。仏陀は開示して言いました:‘Sabbe sattā āhāra-ṭhitikā’――「すべての衆生は食に依存している」と。ここで言う「食」は「因」を指していて、食物の事ではありません。「四食」とは四つの因の事です。段食(kabaliṅkārāhāra)は、四種類の色法の事で、すなわち、業生色、心生色、時節生色と食生色の事です。ここで、仏陀はこの四種類の色法の中の食素を強調していて、それは五蘊界の衆生が存在する為の主要な因の一つだからです。しかし、食素は、単独で生起する事はできず、その為、それと共に生じるその他の色法もまた段食の中に含まれます。もう一つ別の理由としては、四種類の色法の中の業生色の中には六処(眼浄色、耳浄色、鼻浄色、舌浄色、身浄色、心所依処色)が含まれるということです。五蘊界の衆生にとって、名法は、必ずこれらの依処に依存してのみ生起できるので、故にこれらの依処もまた因の一種になります。

次に、触食(hassāhāra)、思食(cetanāhāra)と識食(viññāṇāhāra)について。ここでの「思」は、「行」について言っており、「識」は「業識」について言っています。「触」は」思と識が相応する触心所の事です。この三種類の食は、行と業を代表しています。あなたは過去世の因を観照する時、もし、仏像に花を供える場面を観照した場合、あなたはその時の究竟名色法を照見しなければなりません。もし、その時、あなたが喜びの心と因果を理解する明晰な心で供養したのであれば、花を供える時の意門心路過程の一つ毎の速行心の中には、34個の名法があります。

これらの名法の中で、触心所とは、すなわち、触食と言もわれ、その作用は心をして対象に接触させる事です。もし触がなければ、あなたには目標が見えません(たとえば、花、仏像等)。故に触食は、因の一種です。

次に思食ですが、思もまた行又は業とも言います。思の力があるが故に、果報が生じます。思が強い程、果報は強くなります;思が弱いと、果報も弱くなります。故に思食もまた因の一種です。

四番目の食は識食で、ここで言う識は業識を指します。それもまた因の一種です。というのも、もし識がなければ、思が生起できないからですが、それは心所が必ず心(識)と同時に生起するという事から来ています。この四種類の食は、生起するや否や即刻壊滅しますが、しかし、それらの業力は、名色相続流の中に存在し続けて、未来の果報を造ります。行と業は、依処に依存しなければ生起する事が出来ません。故に、依処(段食)もまた因の一種と言う事になります。

上に述べた以外に、まだ多くの助縁が必要です。すなわち、無明・渇愛・取です。この三項の煩悩は、もう一つ別の心路過程の中に存在しています。《食経》(Āhāra Sutta)の中で、仏陀は開示して言いました:「四種類の食は、どのような法によって生起するのか?」「渇愛の故に、四種類の食は生起する・・・」と。何度も生起する渇愛は、とりもなおさず取であり、渇愛と取がある時、それは無明でもあります。無明、渇愛、取が生起するが故に、四種類の食もまた生起します。あなたは、それらの因果関係を観照しなければなりません。

このように観照する事ができるようになったなら、今世における、結生心の(生起した)時(に生起した)五蘊を観照しなければなりません。その後に前世の臨終の時に現前した業力を観照しなければなりませんが、それらの間の因果関係を確定する為に、この両者を交互に交代して観照します。あなたは前世において、比丘又は比丘尼になりたいと発願したかも知れません。本当に、比丘や比丘尼がいると錯覚するのは無明です;比丘、比丘尼五蘊を貪愛するのは渇愛です;何度も生起する渇愛はとりもなおさず取です。無明、渇愛、取というこの三種類の煩悩の為に、あなたは行か、又は業を造ります。行の業力が熟した時、それは今世の結生の時の五蘊を生じさせます。あなたがこのように、何度も因果関係を観照する時、四種類の食は、結生の時の五蘊を生じさせ得る事が理解できるようになります。

観照する為の、もう一つの方法は:あなたは先に、現在の四種類の食、すなわち、四種類の因を観照します。たとえば、現在、あなたは来世において、比丘又は比丘尼になりたいと発願するとします。この願のせいで、あなたは善行を修して積徳します。その善行は、触食、思食と識食、すなわち、触、思と識という三種類の因を含んでいる、という訳です。そして、それらは、すべて依処に依存してしか生起できないのですが、依処とは段食であり、故に全部で四種類の食があります。この四種類の食はどのようにして生じるのか?仏陀は開示して言います:「渇愛が生起する事によって、四種類の食が生起する」と。渇愛は因、四種類の食は果です。再三再四生起する渇愛は取です。故に、取が生起する事によって、四種類の食も生起します。その後、あなたは受が生起するが故に、渇愛が生起すると観照しなければなりません。受が因で、渇愛が果です。触が生起するが故に、受が生起する。触が因で、受は果です。六処が生起するが故に、触が生起する。六処は因で、触が果です。名色が生起するが故に、六処が生起する。名色が因で、六処は果です。識が生起するが故に、名色が生起する。識が因で、名色が果です。行が生起するが故に、識が生起する。行が因で、識は果です。無明が生起するが故に、行が生起する。無明が因で、行は果です。あなたはこのように、逆に因果関係を観照する事もできます。これを逆縁起法(paṭiloma paṭicasamuppāda)と言います。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。