Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー70

読者の方々には必ず、以下の事を知っておいて

頂きたい。

仏陀は、いまだ仏に成る前、菩薩であった時、

すでに阿羅邏迦羅の観点を否定していたこと

を。

ただし、彼は、この観点について、それが

間違っている、とは言わなかった。

ただ、彼は、それは苦痛を滅し、取り除く

境地に到達することができない、と考えた。

というのも、苦痛を滅し、取り除く境地は、

それよりさらに、多少高度でなくては

ならないからであって、ということは、

更に一歩進んで、知覚者または「自我」を

取り除いた時のみ、(+その境地に)到達

することができる(+と仏陀は考えた)

からである。

もし、「自我」を苦痛の止息する場所だと

考えるのならば、それはそれでも構わない

が、もしそうであるならば、阿羅邏迦羅が

形容していたモノは、「自我」とは

言えなくなる。

というのも、「自我」に執着すると、

依然として、ある種の苦痛はあるという訳で

あるから。

実際、阿羅邏迦羅と彼の弟子たちは、この種

の境地に満足していて、そのため、彼らは、

この境地にとどまっていた。

その理由は、彼の学説が、この所における

執着を、超越していなかったためである。

しかし、もう一つ別の角度から見ると、

ある法師の弟子が、もう一人の法師の観点を

もって、これは自分の先生の観点であると

いうならば、それは非常に奇怪なことに

なる;

もし彼が、他の法師の観点を、自分が悟った

ものだと宣揚し、かつ、この観点は、仏陀

教え導いたものと同じであると考え、

または、仏陀の観念に合致すると言うならば、

それもまた、奇怪な事なのである。

前に述べた「究極の自我」への執着が、仏陀

観点(仏陀は、心霊(ママ、以下同様)が真正に、確実

に浄化される前、更に一歩進んで「自我」を

放棄しなければならない、と主張する)に

合致しないことを理解するために、我々は

必ず、仏陀以前にすでに存在していた観点に

触れなければならず、かつ、それと仏陀の観点

とを比較し、両者の内容・内実はどうなって

いるのかを、見極めなければならない。

この目的のために、この章において、かくの

如くに「残存する自我」または「外道修法

最高者の自我」について、長々と、かつ、

大いに論じている、という訳である。

以前にも述べたように、仏教の中で言う所の

「残存する自我」または「外道修法最高者の

自我」は、インド哲学における、ある種の宗派

の「自我」と」同じ(+もの)である。

それらは、どのように同じであるのか?

それらの哲学的観点を考えてみれば、その問題

への回答はすぐに得られる。

もし、あなたが仏陀の観点とインド教

(=ヒンズー教、以下同様)とは異なると

考えるならば、私はあなたに、インド教・

婆羅門教と仏教は、二つの異なる宗教であると

いうことを、子細に調べていただきたいと

思うが、その主要な理由は、「自我」に対する

見方が異なっている、ということである。

もしそうでないならば、(+両者はお互い)

異なる宗教として成立する必要性が

なくなるのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>