読者の方々には必ず、以下の事を知っておいて
頂きたい。
仏陀は、いまだ仏に成る前、菩薩であった時、
すでに阿羅邏迦羅の観点を否定していたこと
を。
ただし、彼は、この観点について、それが
間違っている、とは言わなかった。
ただ、彼は、それは苦痛を滅し、取り除く
境地に到達することができない、と考えた。
というのも、苦痛を滅し、取り除く境地は、
それよりさらに、多少高度でなくては
ならないからであって、ということは、
更に一歩進んで、知覚者または「自我」を
取り除いた時のみ、(+その境地に)到達
することができる(+と仏陀は考えた)
からである。
もし、「自我」を苦痛の止息する場所だと
考えるのならば、それはそれでも構わない
が、もしそうであるならば、阿羅邏迦羅が
形容していたモノは、「自我」とは
言えなくなる。
というのも、「自我」に執着すると、
依然として、ある種の苦痛はあるという訳で
あるから。
実際、阿羅邏迦羅と彼の弟子たちは、この種
の境地に満足していて、そのため、彼らは、
この境地にとどまっていた。
その理由は、彼の学説が、この所における
執着を、超越していなかったためである。
しかし、もう一つ別の角度から見ると、
ある法師の弟子が、もう一人の法師の観点を
もって、これは自分の先生の観点であると
いうならば、それは非常に奇怪なことに
なる;
もし彼が、他の法師の観点を、自分が悟った
ものだと宣揚し、かつ、この観点は、仏陀の
教え導いたものと同じであると考え、
または、仏陀の観念に合致すると言うならば、
それもまた、奇怪な事なのである。
前に述べた「究極の自我」への執着が、仏陀の
観点(仏陀は、心霊(ママ、以下同様)が真正に、確実
に浄化される前、更に一歩進んで「自我」を
放棄しなければならない、と主張する)に
合致しないことを理解するために、我々は
必ず、仏陀以前にすでに存在していた観点に
触れなければならず、かつ、それと仏陀の観点
とを比較し、両者の内容・内実はどうなって
いるのかを、見極めなければならない。
この目的のために、この章において、かくの
如くに「残存する自我」または「外道修法
最高者の自我」について、長々と、かつ、
大いに論じている、という訳である。
以前にも述べたように、仏教の中で言う所の
「残存する自我」または「外道修法最高者の
自我」は、インド哲学における、ある種の宗派
の「自我」と」同じ(+もの)である。
それらは、どのように同じであるのか?
それらの哲学的観点を考えてみれば、その問題
への回答はすぐに得られる。
もし、あなたが仏陀の観点とインド教
(=ヒンズー教、以下同様)とは異なると
考えるならば、私はあなたに、インド教・
婆羅門教と仏教は、二つの異なる宗教であると
いうことを、子細に調べていただきたいと
思うが、その主要な理由は、「自我」に対する
見方が異なっている、ということである。
もしそうでないならば、(+両者はお互い)
異なる宗教として成立する必要性が
なくなるのである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>