Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 2018年8月10日の翻訳をもって翻訳ワークは終了しました。                     コメント欄は利用OKですが、リトリートに入っている時は回答しません。。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-19

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

受蘊に関しては、それらは、それら自身の領域に存在しており、それらは、物質的身体の一部分ではない。

身体と同様に、それらは感受ではなく、身体の疼痛の中において、それが直接作用する事はない。

この二つの蘊ーー身体と感受ーーを比べてみると、行と識蘊が比較的明確である。

これは、後三者は、生起した後、即刻消滅する為、前二者に比べて、観察しにくいからである。

相対的に、感受は、滅し去るその直前に、非常に短い時間そこに留まるが、これがそれらを突出させる原因であり、その為、それらは、禅の修行の時に、容易に分離することができるのである。

疼痛感が生起する時、直接それらに専注し、かつ、なるべくそれらの本質を理解する事。

挑戦されたら、しっかりとそれに挑み、注意力をその他の部分に移動させて、疼痛から逃避してはならない。

また同時に、疼痛を滅し去りたい、という願望の誘惑に、抵抗しなければならない。

観察する唯一の目的は、真正なる理解を得る事であって、疼痛の解除は、真相をはっきりと理解した事から生じる副産物に過ぎず、これを主要な目的としてはならない。

このようにすると、もし、疼痛が緩まらない場合、更に大きな感情的な傷害が齎される事がある。

激痛と対面している時、抑圧や忍耐は、成功を齎さない。

身体と心を外側に向かって排除し、疼痛に一心に専注するのもよくない。

正しい成果を得るためには、三種類の、すべての要素が含まれていなければならない。

観察においては、直接的で、かつ、明確な目標がなくてはならないのである。

(1-20につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>