<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
受蘊に関しては、それらは、それら自身の領域に存在しており、それらは、物質的身体の一部分ではない。
身体と同様に、それらは感受ではなく、身体の疼痛の中において、それが直接作用する事はない。
この二つの蘊ーー身体と感受ーーを比べてみると、行と識蘊が比較的明確である。
これは、後三者は、生起した後、即刻消滅する為、前二者に比べて、観察しにくいからである。
相対的に、感受は、滅し去るその直前に、非常に短い時間そこに留まるが、これがそれらを突出させる原因であり、その為、それらは、禅の修行の時に、容易に分離することができるのである。
疼痛感が生起する時、直接それらに専注し、かつ、なるべくそれらの本質を理解する事。
挑戦されたら、しっかりとそれに挑み、注意力をその他の部分に移動させて、疼痛から逃避してはならない。
また同時に、疼痛を滅し去りたい、という願望の誘惑に、抵抗しなければならない。
観察する唯一の目的は、真正なる理解を得る事であって、疼痛の解除は、真相をはっきりと理解した事から生じる副産物に過ぎず、これを主要な目的としてはならない。
このようにすると、もし、疼痛が緩まらない場合、更に大きな感情的な傷害が齎される事がある。
激痛と対面している時、抑圧や忍耐は、成功を齎さない。
身体と心を外側に向かって排除し、疼痛に一心に専注するのもよくない。
正しい成果を得るためには、三種類の、すべての要素が含まれていなければならない。
観察においては、直接的で、かつ、明確な目標がなくてはならないのである。
(1-20につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>