Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

『阿羅漢向・阿羅漢果』3-4

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

五蘊は阿羅漢ではなく:阿羅漢は五蘊ではない。

五蘊は絶対的に、かつ一つの例外もなく、ただの世間的真実に過ぎない。

それに反して、清浄なる本性は、すでに完全にーー100%ーー世間的真実の、すべての痕跡から、解脱している。

故に、二者は、混同され得ないし、混同される事も無いし、(+双方がお互いに)完全に隔絶されているのである。

それらは、各々が、各々の場所において、相対的な反応を起すだけである。

清浄なる本性は、突然、己自ら、絶対的解脱の位置に踊り出る。

無始以来、どの様な時代であっても、すべての人間の五蘊は、この世間的真実の上において、維持され続けてきた。

証悟の後、仏と阿羅漢は、五蘊の運用を停止するために、それらを破壊しようなどとは考えない。

たとえば、笑う事。

笑いは、五蘊の内の自然な作用の内の一つである。

ちょうど、涙を流すのと同じ様に。

この二者は、みな、五蘊がそれらの状況に合わせて、生じせしめる作用である。

我々の身体が、適切な健康を保持している限り、それらは適合する作用を選択して、運用することができる。

たとえば、我々が、地でもって、レンガ、石灰、石、砂、鋼などの建材を造り出すようにーーこれらが、地から来るのでなければ、一体、どこからやって来ると言うのであろうか?

我々が、これらの基礎的な建材を擁する時、我々は、どのようなものも建築することができる。

人々は一体どうしたのであろうか?

あなた方は、精神に異常を来したのであろうか?

それを私は聞きたい。

私は、法の名において批判されて、涙を流す。

しかし、あなた方の内、誰が、法の清浄なる本性を見ただろうか?

以前の私は、それを見たことがなかった。

私の先祖もまた、仏法を修行した事がなかったし、至高で無上なる法を見た事も無かった。

私は一人の修行僧であり、私は私の修行に乗っ取って、私があなた方に説明した所の方式に従って、一段、また一段と、不断に知識と智慧を証得して行ったのである。

私はこの様な修行方式によって、最後には、最高レベルの証悟を得ることができた。

今、この証悟は、それ自身の方式によって、己自身を顕現するのである。

(3-4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>