心と身の苦受を、内受と言う。
というのも、それらの自性・名称は、苦痛(+と関係があるから。原文、意味不明の為、試訳)。
この三種類の受は、異なる名称を持っているが、それらは皆、苦である。
というのも:「無常なるものは、すなわち、苦である」と言うし、その上、それらは不断に生・滅の圧迫に遭遇しているから。
このように、苦の含意は、非常に広いものである。
同様に、五取蘊及びそれらの因は、無我である。というのも:「苦とはすなわち、無我である」と言うから。
なぜか?
(+我々には)それらを主宰する力が、ないからである。
個人の願望による主宰、コントロールを受けないものは、無我である。
禅の修行者は、生滅智によって、これら一切の真実の本性を観照する。言い換えれば、彼は、観智でもって、汚染から解脱し、行道(=行くべき道)を安穏として、進むのである。
もし、禅の修行者が、この三界の行法を無常・苦・無我として観照するならば、彼の観智は、徐々に熟し、最後に、四聖諦を証悟する。
もし、修行者が、ソータパナ道果によって、四聖諦を証悟するならば、彼は四悪道に生まれることから、完全に解脱できる。
もし、彼がサターガミ道果によって、四聖諦を知見するならば、彼は、最も多くても、最低一回だけ人間界に生まれ変わるだけでよい。
若し、彼がアナーガミ道果によって、四聖諦を知見するならば、彼は完全に欲界を解脱し、梵天界にだけ生まれ変わる事ができる。
もし彼が、阿羅漢道果によって、四聖諦を知見するならば、彼はこの長期に亘る生死輪廻から、解脱する事ができる。
このように、長期に亘る輪廻から解脱したいと考える禅の修行者にとって、四聖諦を知る事は、必要である。
しかしながら、四聖諦を知る事は、決して容易なことではない。
皆様には、次の経を読んでいただきたい。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-6につづく)
訳者コメント:下線は訳者。<無我>を<私はいない>と理解してしまうと、仏法の修行・実践をする意味がないし、多くの事が説明不能に陥ってしまう。<無我>は、
<(五蘊、すなわち、心身は)私のものではない>と理解するのがよい。心身は、私のものではないから、それらを捨てて、般涅槃することができる、のである。
言語学者の説でも、インドでは自己のコントロールの外にあるものを<アナッター>と言うとあり、中村元博士は、<アナッター>は、無我ではなく、非我だと言っていました。
★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。
ご協力、よろしくお願いいたします。
<パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」2008年中国語版→日本
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>