Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

小型通様のコメントへの回答ーその1

過日、私のブログにUPしました

【またまた戒名の件】

の文章をご覧になった小型通様より、本日、コメントを頂きました。

【またまた・・・】

へのご意見ではなく、私が禅病を患っている事への

アドバイスです。

小型様、大変的確なアドバイスを頂き、ありがとうございます。

禅病は、修行者への何らかの警告である・・・

確かにその通りです。

私の場合は、

1、40年前の、タイの森林僧院での、修行の不徹底さ(座禅・瞑想を通して、チャクラが開いたが、その開き方が不均衡であったのに、そのまま放置してしまった)。

2、20年前、緬甸のパオ森林僧院で修行した時、言葉の問題を含む(通訳さんを通し修行していた)色々な無理が重なって、その時すでに、禅病の予兆があったが、それを改善することなく、日本に帰国した。

3、私の業の、悪い部分の集積が、表に出て来て、禅病の症状になった。

の3点が大きい、と思っています

(禅病が最悪の時、仏前において、懺悔を相当、致しました)。

小型様より、私が自分のブログにて、マハーシ瞑想の批判をした事があるのも、関係があるかも知れない、とのご指摘がありました。

これは、大変に難しい問題ですね。

他宗教、他宗派を批判してはいけない、となりますと、これは、例えば

〈オウムの危険性に一早く警鐘を鳴らす人がいたならば、あの様な大惨事は起こらなかっただろう>

という意見に対して、どの様に対応するのか、

《沈黙は常に金》

であるのかどうかという、社会や宗教のありようへの、

己の立ち位置に対しての、本質的な問題を含むからです(オウムでは、多分、《オウムを批判する者は地獄に堕ちるぞ》という脅し、圧力が横行していたと思います)。

やみくもな批判、悪意や無知から出発した批判と、的確な、善意による提案・・・これらが、なかなか区別がつきにくいのも事実、痛し痒しという所です。

また、宗教における、指導者と信者の関係性、宗教団体における民主主義とは何か?という問題もあります。

この件(なぜ、他宗教、他宗派を批判してはいけないのか?)に関しましては、考えが深まりましたら、また意見を書かせて頂きます。

まずは、小型様に、的確な、慈みのこもったコメントを頂きました事への、御礼を申し上げます。

末尾になりましたが、私の禅病は、6月中旬ごろ、劇的に改善されまして、今は整骨院で電気的治療を受ける以外は、(ヒーラー先生による《手当て式》の治療は卒業しまして)自分の意志において<意守丹田>を実践し、随意に、(邪)気を、下丹田に降ろす事ができており、日々の修行も、元の、パオ・メソッドによる<安般念>に戻っています事を、ご報告いたします。

私は、修行歴こそ長いものの、まだまだ凡夫であり、有意、無意の過失も多い事と思います。

小型様には、またよきアドバイスを頂ければ、よろこんで拝聴させて頂きます。

よろしくお願いいたします。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>