Sayalay's Dhamma book

仏教書の翻訳は2019年夏をもちまして一旦終了しましたが、2020年発生しましたコロナ禍により、修行者独習に供する為、『親知実見』を翻訳しています。過去に訳出した23冊は<菩提樹文庫>にて閲覧できます。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

40種類の禅修業処出典(あとがき)

先に、ゴータマ仏陀の教えた

<40種類の禅修業処>(=止瞑想の40種類の瞑想の対象)

経典内の出典を、『親知実見』からの引用、という形でご紹介しました(11月26日付ブログ参照)。

ゴータマ仏陀の教えた修行方法は、《止・観瞑想》でパーリ語で、止はサマタ、観は vipassanā と言います。

40年程前、テーラワーダが日本に伝わった頃、よく

[ゴータマ仏陀は、止瞑想を否定して、観の修行を勧めた] という説明を聞きましたが、この解釈は、半面正しく、半面は誤解です。

仏法の悟りとは、究極では<涅槃体験>という事になりますが、これはなかなか難しいです(滅尽定を成就するのは、なかなか難しい、の意)。

その為、涅槃(滅尽定)を成就する前段階として、観を体験する様にします。

観とは、色聚(素粒子に近似した微細粒子)と名聚(心、チッタ)という、二種類の瞑想の対象の、その刹那生・滅を観察する事をいいます。

心眼が育ちますと、(肉眼の)開眼でも閉眼でも(人によっては一方だけの場合もあり)、色聚と名聚の分裂、生・滅する様、すなわち<無常・苦・無我>が観えてきます。

無常とは、色聚と名聚が、常に、刹那に生・滅していて、留まる事を知らない様。

苦とは、色聚と名聚が、永遠に生・滅を繰り返していて、これが完成だ、という状況を迎える事がないので、外部世界と身・心の[不満足な状態]をいい、一般的な<苦しい>という意味ではありません。

無我とは、色聚と名聚の刹那生・滅を観察していると、その生・滅に神(注1)も関与していないし、自分も関与していない事が分かる。それを無我といいます。

無我は、<縁起>とも言い換える事ができます。

(最終的には無我は、<私はいない>と解釈できますが、修行初心者は、頭で<私はいない>と思っても、やはりお腹はすくし、病気になれば早く治りたいし、人に悪口を言われたら悲しいのであって、<私はいない>というテーゼを、腹の底から本当に分かる前に頭で受け入れて、無理矢理その様に思い込もうとするのは止めた方がよいと思います・・・実感の伴わない善行為は往々にして偽善になるし、それを続けていると、ノイローゼになります)。

そして、色聚と名聚の刹那生・滅を観察しようか、という時、心眼が必要で、その心眼を育てる方法が止瞑想です。

世の中には色々な止瞑想がありますが、ゴータマ仏陀が教えたのは、40種類、と言われています(もともとは、40種類以上あったものが、2600年経って、失われたものも、あるかもしれません。失われたものの検証や復活は、なかなか難しいですね)。

止瞑想を完成させて後、初めて、観の修行が始まります。止瞑想(止禅)の完成とは、安止定の確立をいい、それはすなわち<初禅~四禅>の事で、四禅では修行者の呼吸が止まります。

過去世の因・縁によって、修行の始め、いきなり観(vipassanā)が出来る修行者も存在しているかと思いますが、その人は修行しなくても、最初から止が軽々とできる人であって、止が出来ないのに、観が出来るなどという事は有り得ません(注2)。

私の知る限りでは、止が近行定レベルで、未だ四禅に達していなくても、色聚や名聚の刹那生・滅を観ずる事ができる人はいます。これも過去世の因・縁だと思います。

世の中には、色々な因と縁を持つ人がいるので、紙に書かれたアビダンマの定義に執着しすぎるのもいけませんが・・・特殊な体験や稀有な例外は、定義から漏れる事があり、また、紙に書かれたものは<死んだ知識>であるが故に・・・基本的な定義は踏まえておいた方が、無駄な寄り道、誤解を減らす事ができると思います(定義を知っていると、世界中のサンガ、仏教徒同士の対話も、し易くなります)。

40の業処は、観(vipassanā)の前哨的な修行であって、仏教では、観に進むためには、止を完成させておく必要がある事。

止が出来ても、観ができなければ、無常・苦・無我は観察・体験できない事。

巷で言われている様な、ゴータマ仏陀

[止瞑想を否定した]

のではなくて

[止瞑想を完成させた後、定の楽に耽溺する事なく、止瞑想で培った集中力を借りて観の瞑想を完成させ、存在の真理である所の無常・苦・無我を(手に取る様に)

<直接知覚>したならば、次には、涅槃体験に向かう]

と教えたのだ、とご理解頂ければ、応用篇・・・

ご自身の因、縁、業に基づいた修行方法を構築する時の参考になるかと思います。

注1=創造神の事。ゴータマ仏陀出現の前、インドでは婆羅門教(現在のヒンズー教)が盛んでありましたが、婆羅門教では創造神を立て、世界と有情は、創造神によってコントロールされており、それ故、人生の究極の目的は、創造神の元に合一する事とされました(真我説、梵我一如説)。

ゴータマ仏陀は、創造神を退け、縁起説を掲げ、無常・苦・無我と涅槃を主張しました。

注2=[止瞑想を完成させてから観瞑想に入るのでは、困難が多すぎる]と訴えた人々に、ゴータマ仏陀は、四界分別観を教えました。

これはいきなり瞑想によって、四界(地水火風)の観察を始め、身体が氷の様に透明になるのが知覚できたなら、色聚と名聚の無常・苦・無我を観察します。このタイプの修行者は、止(サマタ)の力が足りない為に、心相続流の観察力に弱点がある、と言われています。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>