般若の独り言~無我の境地
先日、老人向け体操教室で、こんな事を聞かれました。
Aさん
「尼僧さん(サヤレー)は、毎日、瞑想をするそうですが、<無我の境地> ってどんなものですか?」
私
「我々は、『無我の境地』(忘我の境地)になりたくて、瞑想する訳ではありません。
それと正反対に、座禅・瞑想の修行を通して、対象を認識する能力を極限まで高めて、観察する対象の、その性質、すなわち、無我を知る努力をしているのです。」
Aさん「??????」
私
「観察する対象は、身・心(注1)で、まず先に、己自身の身体を観察する修行をしますが、それは、身体の素粒子を観察する事を意味します。
素粒子は、無常・苦・無我という性質を有しているので、それを観察するのです」
Aさん
「そんなこと可能なのですか?」
私
「毎日、座禅・瞑想の訓練をして、あなたの中に、心眼が育てば、できます。
素粒子は、肉眼では見えません。
心眼、智慧の目で見るのです・・・偶に、肉眼で身体から発する光、フォトンが見えている、という人がいます。この場合、心眼と肉眼、両方で観れる様、引き続き修行する様に、と指示が出ます。」
Aさん「?????」
ここで会話は、途切れました。
ゴータマ仏陀の正等正覚(究極の悟り)は、世界の、すなわち、身・心(と外部世界)の、構造上の<からくり>を発見したものであって、それは、現代素粒子物理学で言われる所の、
「世界のすべては素粒子で出来ている」
という事を、ゴータマ仏陀が、瞑想で発見した、ということになります。
その上、ゴータマ仏陀は、素粒子は無常・苦・無我であり、有為法であり、苦の世界(永遠に完結する事がない、不満足な世界)であるが故に、無為法へと解脱せよ、涅槃せよ、と言いました。
ここの所が、現代の素粒子物理学者と異なって、
ゴータマ仏陀が、卓越した<人類の教師>と呼ばれる所以です。
日本では、座禅・瞑想するのは、<無我の境地> になる為、と誤って伝えられていて、
「何の為に修行するのか?」
という、目的も手段も曖昧で、生身の人間の、その人生に切り込む <リアリティー> に欠けていて、
原始仏教では当然の、止・観(サマタ・vipassanā)を本気で修行する人は、非常に少ない。
残念ですが・・・。
(注1)身・心=己自身の身・心、他者の身・心、また、外部世界の物質を含む。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay般若精舎>