昨日のブログ
<《実用アビダンマ》(4-19)>
にUPしました文章・・・
翻訳しながら、私の胸に、迫るものがありました。
我々は、血縁者、知人、友人が亡くなると、何日も泣き続けますが、
これは<粗い無常>であって、
実は我々は、毎分毎秒、身・心における、微細な無常が、生起しつづけています(心の生・滅の速度は、物質の生・滅の速度の17倍の速さ)。
これは、<微細な無常>です。
我々は<微細な無常>の、その生・滅の速度があまりに速すぎて、それに気が付かないまま、日々、能天気に生きている、という訳です。
ゴータマ仏陀の教えし
サマタ・vipassanā・・・
座禅・瞑想の修行(安般念または四界分別観)をして、生・滅随観智まで来ますと、色法と心法、すなわち、外部世界(クォークの類)、己の身(同左)・心が、非常に速い速度で生・滅しているのが、慧眼(心眼)で観える様になります。
ゴータマ仏陀は、菩提樹の下で悟りを開いた後、最初は、説法をする気になれませんでした。
己自身の悟りの内容を、衆生に説明しても、到底わかってもらえないだろう・・・
己の説法は、全くもって、無駄骨になるだろう、と予感したからです。
「あなたの身・心は、毎分毎秒、非常な速さで、生・滅している」
と言われて、その内容を、即座に理解し、受け入れられる人は、非常に少ないと思います。
ゴータマ仏陀は、それを危惧したわけです。
仏教では、他の宗教が言う様な、超能力とか神秘体験
(注1)とかを、尊重し、吹聴する様な事は、ありません。
仏教で一番大事な事、それは、外部世界と己自身の身・心が、刹那の速度で生・滅しており、それらが、
<無常・苦・無我>
である事を、己自身の慧眼でもって、確認し、体得する事が、身・心からの自由を得る為の、もっとも早道であることを、ゴータマ仏陀は知っていたからです。
ゴータマ仏陀は、最初の頃に抱いた徒労感を克服して、
無知・無明のままに生きる衆生を憐憫し、
法を説いた。
ゴータマ仏陀の説いた法は、《無価》である
(値段がつけられない程、貴重である)。
礼敬合掌。。
(注1)超能力や神秘体験は、修行の途中に、副産物として生じる事がありますが、<無常・苦・無我>の悟りとは、直接的な関係は、ありません。
真正の仏教徒は、超能力や神秘体験を、修行の最終目標、目的にする事はありません。
神の恩寵を期待したり、神を信仰する事もありません(仏教の原点を鑑みれば、神仏習合などあり得ない事が分かります)。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>