Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~「愛」について

もう大分前のことですが、老人向け体操教室で、

ある女性から、この様な事を言われました

「どうして、仏教は〈愛〉という感情を否定するのですか?家族を愛するのは間違いですか?」

私は、答えに困り、返事をしませんでした。

大勢の人が集まっている体操教室で、仏教論争を始めたくはありません。仏陀の教え・・・アビダンマは、一言二言で説明できるほど、簡単ではありません。

では、なぜ仏教では「愛」を否定するのでしょうか?

まず「愛」とは何か、という定義を明確にしなければなりません。

仏教で否定的に取り扱われる「愛」という言葉は、「愛情」という意味ではありません・・・仏教では愛情を否定していません。

仏陀

「出家の比丘は、母親が、自分の一人子を愛する様に、その様な深い愛情でもって、衆生に向き合いなさい」

と言っています。

仏陀は、一般的な〈愛情〉を否定しない。否定しているのは「愛」すなわち、「渇愛」。

「愛」(渇愛)とは、己自身が、刹那に生・滅する色聚(身体)と、刹那に生・滅する心・心所の合成物であることを知らずに、

《私は確実に実体をもって、ここにいる》、

《私は絶対にこうありたい》

と、己の存在に対して、[必要以上に]執着する感情の事をいいます(常識的なレベルの、生きて行くための願望、希望を否定している訳では、ない)。

私は、[己自身の存在は、刹那に生・滅しているのだ]、ということが実感できなければ、「愛」(渇愛)を否定したアビダンマを、理解できないし、受け入れることもできない、と思います。

ゆえに、仏教、すなわち、アビダンマを理解するためには、禅修行という実践が不可欠、な訳です。

己自身の、刹那生・滅を見ようとしない人々と、「愛」(渇愛)に関して、議論するのは、徒労ではないでしょうか?

その様に思って、私は、他人と、アビダンマに関する議論はしない、と決めています。そして、ただ、

【見よ、見よ、己自身の生・滅を】

とだけ、言いたいと思います。

追補:

人々は、アビダンマで説く所の、無常・苦・無我の生・滅論を受け入れられない故に、禅修行を実践しない。

禅修行を実践しなければ、無常・苦・無我は理解できない。

これでは、にわとりと卵、どちらが先か、の永遠のループになってしまいます。

仏教、特に禅修行を実践する事の難しさが、ここにあると私は思います。

ゴータマ仏陀が悟りを開いた直後

「私は、私の悟りの内容を人に説明したくない。説明しないまま、このまま、死んでしまおう」

と思ったのは、悟りの内容を説明して上げても、この無限ループから抜け出せる、智慧ある人が存在するとは、とても思えなかったからでしょう。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>