南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

般若の独り言~vipassanā(観)について

先回のブログで、無常と vipassanā(観)の関係性を書きましたので、今日は、vipassanā について書いてみます。

vipassanā は、ずばり、素粒子(のレベルのミクロ的な)物質の、生・住・滅と、心の生・住・滅を観察する行為をいいます。

素粒子と心の生・住・滅は、肉眼では見えないので、先に、座禅・瞑想をして、心眼を育てます(注1)。

その為のメソッドとして、緬甸のパオ森林僧院で実践されているのは、主に、己の息の出入りを観察する安般念(アーナパーナサティ、出入息念)と四界分別観です

(指導者によっては、初心者は、ゴータマ仏陀の教えた

40種類の業処の内の、どれから始めてもよい、といいます)。

安般念または四界分別観の修行をして、心に、妄想をしない習慣がついて、一点集中的な集中力が強くなった時、定(サマーディ)の力がついた、と言います。

定は、その弱いものは近行定といい、上質のものは安止定と言います(安止定には初禅から四禅まで数えることができます)。

修行が上手くいって、(心眼で)素粒子が観える様になった時であっても、いまだ素粒子の生・滅を観ることができず、(素粒子の生・滅があまりに速いため)、素粒子を粒の塊(注2)として観じている場合は、

「vipassanā が出来た」

とは言わず、それは

<止(サマタ)と観(vipassanā)の混じったレベル>

と言います。

本当の vipassanā(注3) が出来た時、すなわち、心眼で、素粒子の刹那生・滅と、心の刹那生・滅が観じられる時、その集中力は、【刹那定】といいます。

一般的に、深い定(初禅~四禅)に入ると、観察の対象と心が一つになってしまい、その状況下では、心眼で以て、刹那に変化するものを観じる事が難しくなりますので、修行者は一旦定から出て(しかし、素の意識に戻らぬ様に注意して)、素粒子と心の生・滅を観じる時の定力を、特に【刹那定】と定義している訳です。

なぜ、人生において、素粒子(と心)を観じる事が、それほど重要かといいますと、素粒子が波動であると同時に粒であり、その粒がものすごい速さで生・滅している所を観じれば、<物>と<事>への執着が取れるからです。

執着のとれた心は、すがすがしく、安楽ですが、それはお金では買えず、己自身で育て、獲得するものです(幸いなことに、自分の息を見て、定力を育てる修行は、お金がかかりませんが、お金で買えない大きな楽しみを得る事ができます、コスパよし、です~笑)。

注1=素粒子を心眼で観じるタイプの人と、肉眼+心眼で観じるタイプの人がいます。ゴータマ仏陀の教えの内容とアビダンマの定義を理解すると同時に、人それぞれ業が多様である為に、例外もある事を、理解する必要があるかと思います。

注2=素粒子の塊は色聚といい、その刹那生・滅の、刹那に変化していく様は、色法といいます。

厳密には、色法と心法を観察するのを、vipassanā といいます。

まれに、安止定に入る能力はないままに、軽い定(近行定)レベルで、色聚を観じる人も存在していて、人の業、資質、能力はさまざまである事が分かります。

注3=vipassanā の表記は、vipassana ではなく、 vipassanā が正しいそうですが、私は パーリ語文法に不案内なため、誤記、誤植はご容赦下さい。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>