私が、日本の大乗仏教への探求を諦めて、仏教の発祥地である、インドか、またはタイ等の原始仏教温存国に視点を向ける様になったのは、日本の僧侶の書いた仏教書に、ゴータマ仏陀の主張した、仏教の最も重要な哲学、思想である所の<無常>が、<無情>という語彙で誤植されてあるのを読んだのが、主要な原因の一です(20歳の頃)。
著者の僧侶も、校閲する出版社の人も、誰一人、この誤植に気が付かない・・・これ以上、日本の仏教書を読んでも意味がないと、その時私は、日本の仏教界に絶望しました。
先日、山頭火の本を読んでいて、同じく、無常であるべき所に、無情と書いてありました(嗚呼)。
2600年前、ゴータマ仏陀は、無情を説いたのではなく、
無常を説いたのです。
では、無常とは何でしょうか?
物質と身・心の、刹那生・滅の事です。
我々の外部にある物質(己の身体を含む)は、素粒子から出来ている事は、この100年間の素粒子物理学者の努力によって、だいぶ明確になってきました(電子レンジも、携帯電話も、素粒子物理理論から、その製造原理が確立されたものです)。
その素粒子は、波動であると同時に、粒子でもあり、ものすごい速さで生、滅しています。
生・滅のあまりの速さの為、私たちは、素粒子が波動から、ドット(粒、塊)に収縮する瞬間を見ることができない(最新鋭の実験器具を使っても、まだ無理なのだそうです)。
ゴータマ仏陀は、2600年前に、物質は、ものすごい速さで、生じては滅し、生じては滅している事を、瞑想で得た心眼を通して、みた、すなわち、観じた訳です・・・
肉眼で物質を見るマクロ的な通常の行為と区別する為に、瞑想で素粒子などの生・滅を見る、ミクロ的な観察行為を、vipassana(=観)、といいます。
そして、ゴータマ仏陀は、心(チッタ)は、物質の17倍の速さで生・滅している事も観じました。
2600年前の、ゴータマ仏陀の発見を、現代の、素粒子物理、科学が後追い確認している、という訳です。
ゴータマ仏陀は<無情>を言わない。
ゴータマ仏陀の教えは、[花が散るから無情]などという<感傷>とは無縁な、冷徹な科学なのだ、という事を強調しておきます。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>