私の誕生日は、今月中にあって、もうすぐ 73歳になります。
73 なんて、なんだか半端な数字ですが、70 から 75 に、一気に飛ぶわけにもいかず(笑)。
今は、女性は、100歳まで生きる人も出てきていますが、私はどうでしょうか・・・まぁ、なるようにしか、ならない、かな?
「100歳まで生きても、寝たきりじゃぁねぇ・・・」
と批判的に嗤う人がいるとしても、こればかりは、自分で、コントロールが効きません。
100歳まで、生きたくても生きられない人もいれば、
生きたくなくても、生きていなければならない人もいる・・・これを《無我》(注1)と言います。
人間は、マクロの世界を多少は、コントロールできても(健康に留意し、環境を清潔に保つ等)、
ミクロの世界は、コントロールできないのですね。
『人生は苦だ』と主張しますと、
<仏教徒は厭世的だ!>
と批判する人がいますが、ミクロの世界(素粒子が刹那生・滅する世界)はコントロールできないので
苦(=不円満)で、無我である、とゴータマ仏陀は言った訳です。
勿論マクロの世界でも、<生・老・病・死> という、
分かりやすい苦もありますが、これは<苦苦>と言います。
無常・苦・無我でいう所の<苦>は、<ミクロ世界の不円満性>の事で、マクロ世界の苦しみは、<苦苦>です。
(注1)
<無我>は、日本の方には、誤解されやすい言葉だと思います。
<無我>の一つの意味は、素粒子レベルの刹那生・滅は、コントロールできない、という事。
もう一つは、インド語の<我>は、創造神を意味し、<無我>は、この世界、生き物は、神が作ったものではない。創造神はいない、という意味。ゴータマ仏陀ご在世当時の、真我(創造神)を主張する、婆羅門教への、アンチテーゼ。
三番目は、例えば、『歩くという現象はあるが、歩く人はいない』という時の、<私という人間は、刹那生・滅しているので、実質はない。空っぽである>という意味において、<無我>と言う。
大乗では<空>を好むが、根本仏教では、<無我>を好む。無我と空は同じ。
<緬甸パオ森僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>