Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~私論なってはならない

8月24日付けブログにて、一休禅師の道歌を引いて、

《なってはならない》

という題で、書かせていただきました。

私たちは【もともと(から)在る】存在であるからして、

『何かになる』という事は、憂・悲・苦・悩を齎します。

私たちは、生まれた時は、母は誰々、父は誰々、その下で生まれた女の子、または男の子という事で、その存在を、外部から規定されます。

小学校に上がる頃には、

活発な子だ、いや、おとなしい子だ。

背が高い、いや、低い。

美人さんだ、いや、それほどでも。

賢い、いやぁ、微妙…(苦笑)

等々、色々なレッテルを張られます。

大人になれば、

大学を出たとか、出ないとか。

仕事ができるとか、できないとか。

もてるとか、もてない、とか・・・

また、色々レッテルを張られます。

しかし、これは、皆、外部からの雑音であり、あなたとは関係がありません。

否、関係がないと言いうのは、ちょっと言いすぎですね。

これらの、あなたの属性は、あなたの業から来ていますから、あなたに関係はあります。が、あなたの本質とは関係がない、と言えば分かりやすいでしょうか?

ラマナ・マハリシは、青年の時に臨死体験をして、

<私はいない><死ぬ人はいない>

ことを悟りました。仏教でいう所の<無我>です。

ゴータマ仏陀の<無我>には、二つの意味があります。

一つは、

創造神はいない(当時のバラモン教が主張していた創造神と真我を否定したもの)と、

私はいない、というものです。

ゴエンカ氏は、凡夫がいきなり<無我>を悟るのは難しいので、安般念や受の観察を通して、先に、無常を悟ることから始めましょう、と言っています。

パオ・メソッドも、無常の観察から始めて、苦の観察、縁起の観察、そして無我の観察へと進みます。

日常生活、社会生活上、他人が当方に張り付けるレッテルは、世俗社会では有効である場合もあり、また甘んじて受けなければならない場合もありますが、己自身の本質はあくまで

<無我>であり、

<何者かになってはならず>

【ただ在る】にとどまり続けると、苦悩が減り、光明が見えてくると思います。

無常・苦・無我を知るには、安般念(入出息念)がよいと思います。是非、チャレンジしてみて下さい。

追補:身体と心の無我に関しては、素粒子の性質、素粒子の刹那生・滅を理解すると、分かりやすいかと思います。

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<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Paññādhika Sayalay 般若精舎>