TVアニメの影響で、一休さんは、
《とんちが得意のお坊さん》
というイメージですが、実際の一休さんは、一休禅師と呼ばれる高僧で、なかなかに反骨精神旺盛の、時代をけん引した、仏教者です。
とんちが得意なイメージは、ひとつは、彼が、熾烈に権力批判をしたため、結果、後年、<庶民の味方><子供を守る人>のイメージがついたから、という説を聞いた事があります。
『一休道歌』(バグワン著)P 26
【有漏ぢより無漏ぢへかへる一やすみ
あめふらばふれ風ふかばふけ】
上の道歌、バグワンは難しく解説していますが、私は、自分の実感に基づいて、私の言葉で・・・。
有漏(ぢ)は、世俗世間の事。
しかし、仏教では、世俗世間というのは、外部に存在する社会というよりは、私たちが、目、耳、鼻などの、五つの感官を総動員して、何物をかを得たい、愛されたい、褒められたい、長生きしたい、人より偉くなりたいと、虎視眈々としている、己自身の煩悩の事を指します。
無漏(ぢ)とは、煩悩のなくなった心の状態。
刹那に生・滅する身・心、世俗世界には、得るものがないと悟り、心が清涼、静かになった状態。テーラワーダ(原始仏教)では、無漏とは、阿羅漢の事。
私は、有漏なる心から、無漏なる心へと帰りたい、と念願して修行している・・・少なくとも仏教徒は、それが目標。
しかし、無我(空)の悟りを得るまでに、己自身の<業>が邪魔をして、色々な障壁が立ちはだかり、なかなか前に進めない。
でも、まぁ、それも、いいじゃないですか。
敬虔な仏教徒で、悟りを目指しているからと言って、必要以上に背伸びをすれば、悟り臭フンプン、慈・悲を振りまく偽善者になり、それがまた別の仮面をかぶることになり、虚勢を張ることになる。
それは有漏そのもの。
己の過剰な欲望、無知、無明、自他を騙す仮面、窮屈な鎧を捨てて、無漏に帰るのは、自分のペースでいい、ゆっくりで、いい。
その帰路の道すがら、雨も降れば、風も吹く。
それも人生、一休み、一休み。
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<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>