今日もまた、曽我氏の著書「無常・縁起・無我<苦をつくらない生き方>」について、書きます。
先にお断りしますが(しつこくて済みません)、私は、彼の当該の著書を読んでおりません。
20年前にWEB上で、彼と「輪廻はあるか、ないか」で議論をした時、彼は「ない派」で、私が「ある派」、水掛け論になった事があります。
その後、彼は「輪廻については語らない」立場を取り、議論は鎮静化しました。
私が緬甸・モラミャインのパオ森林僧院に修行に行った後、今日まで交流がありませんので、今現在の彼の考え方は了解しておりません。
故に、下に書く事は、彼の著書の題名から啓発された私の意見であり、彼への批判ではありません。
私が彼の著書の題名を知ってから、ずっと抱いていた違和感があります。
それは、彼はなぜ、仏法の真髄である<無常・苦・無我>を使わず、あえて<無常・縁起・無我>という表現をするのか?という点です。
三法印における<苦>の定義は<不円満>で、四苦八苦の<苦>とは、少し異なります。
ゴータマ仏陀は、ミクロの世界は<無常・苦・無我>であり、その内<苦>とは、素粒子の不円満性である、と説きました。
仏陀は輪廻派(注1)であるが故に、それは必然的に、出世間説を導きます。
曽我氏は、このミクロの、存在の不円満性を提起しないで、そこに<縁起>を入れました。
それは、「我々は縁起的な存在であるから、お互いを許し許されて生きよう」と言っているように聞こえます(著書を読んでいないので、違っていましたら、私の憶測にすぎないというご批判は受けます。)
テーラワーダの国々のように、仏教が生活に根差している場合を除き、仏教の説明は、非常に難しいと思います。
先日も、日ごろ温泉施設でお世話になっている保健師さんに「サヤレーは仏教徒だけれど、何を信仰しているの?何を拝んでいるの?」と言われて、「否、仏教徒は信仰はしない。私の唯一の目標は、瞑想で素粒子を見て、解脱する事です」とご返事したら、絶句していました。
ゴータマ仏陀は、世俗諦と出世間諦を説きましたが、その主眼は<出世間諦>である事。
出世間諦、これは輪廻を認めなければ理解できない思想である事、ここを踏まえる必要があると思います。
輪廻を認めない人々は、どうしても世俗諦の範囲内で、仏法を説明しようとします。
その時、四苦八苦の<苦>は言っても、ミクロの<苦>、すなわち、存在における<永遠の不円満性>は、言わない。
著書を読んでいない為に、曽我氏が上に書いた通りだとは言いませんが、私の頭の中で、問題が整理されましたので、ブログに書いてみました。
著書を読まずにこれ以上書くと、失礼に当たりますね。正式の書評は、いずれ著書を読んだ後で。
(注1)輪廻のある、ない論争は、パオ・メソッドでは完全に終止符が打たれます。サマタ(初禅~4禅)を成功させた修行者は、次に<縁起>の修習に入りますが、これは己の過去世、未来世を確認する修行です。パオ・メソッドでは、定力のある人間は、己が輪廻する事を、簡単に確認する事ができます。
尚、輪廻を確認するのには、その他に、宿命通という名の神通力でも可能です。神通はパオでも、教える事は可能です。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>