一か月ほど前、大昔にWEB上で論戦して、一度だけお会いした事のある S氏から、メールが届きました。
「『苦』をつくらない」という題名の本を出版したので、アマ〇ンで購入し、読後に、感想を述べて欲しい、との事でした。
現在の所、私はこの本を購入しておりませんし、内容を読んでもおりません。今の時点で、賛成または反対の書評を書こうなどという意図は持っておりません。
ただ、題名をお伺いした時に一瞬「おや?」「えっ?」という違和感がありましたので、その事について書いてみます。
これは、私の仏教用語への深読み癖を紹介しているだけであって、当該書籍への批判ではありませんので、「内容を読まずに批判するな」という批判はなし、にお願いします。
「『苦』をつくらない」という表題を聞いた時、私は即座に違和感を覚えましたが、次に浮かんだのは《「苦」とは何か?(という定義)をもう一度よくお浚いしておかねば》という思いでした。
私は、仏法の中では特に三法印・・・無常・苦・無我の教えが好きで、「苦」と聞くとすぐに、<無常・苦・無我>の中の「苦」を連想してしまいます。
この時の「苦」の意味は、「苦しみ」「苦しい」ではなくて「不円満(円満でない)」です。
もう少し詳細に言いますと、我々のこの世界は、硬い物も柔らかい物も、触れられるものも触れられないものも、己自身を含むすべてが素粒子で出来ている訳ですが、それらはつねに刹那に生じ、刹那に滅していて、一時も止まることが出来ないので、生滅崩壊の様(=無常)、素粒子の生滅を人間にはコントロールできない様(=無我)を「不円満である」「苦」であると言います。
ですから、私は S氏の本の表題にある「『苦』を作らないこと」という主張を、<素粒子の不円満状態を阻止するのだ>という風に受け取り、即座に「いや、それは有り得ない」と思った訳です。
ただ、ダンマには、もう一つの「苦」があります。おそらくS氏が主張しているのは、こちらなのでしょう。
それは、<生(生まれる事)は老病死と愁、憂、悩、苦しみを齎す>という 12縁起 でいう所の、人間が生きている限り受け取らざるを得ない外部情報、外塵刺激に由来する<感受>の問題です。
ゴータマ仏陀は、人生における感受の問題、すなわち、12縁起への解決方法として、「此有故彼有、此無故彼無」と言いました(12縁起の順観と逆観)。
仏陀は、生まれるという事は、その後に必ず老病死が続く、愁、憂、悩、苦しみが続くのであるから、<生まれないのが一番よい>と言った訳ですが、これは凡夫の志向の盲点、死角を突くものです。
生まれた以上、幸せになりたい、どうしたら幸せになれるのかと、日々東奔西走している人々に対して、仏陀は「生まれて来るな」といい、その根拠として四次元世界は無常・苦・無我であり、本質的に不円満を内包する世界であるのだから、と述べたわけです。
我々凡夫が苦しみを齎さないように生きる、生きたいとしたら、それはまず五戒を守る事(出家比丘なら227条を守る)、如理作意(=心を理性的、無妄想的、中捨的方向へと向かわせる)を実践して、善心所、美心心所を保ちながら、深い洞察力を育て、やがては四次元世界の本質・・・無常・苦・無我に気が付く事(=如実知見する事)に、尽きるのではないでしょうか。
私の現在の、仏教徒としての立ち位置は、こんな所です。
追伸:12縁起は、有情が、母胎から生まれて、やがては死ぬのを指す<段生輪廻>的12縁起と、日常的に一秒一分毎に刹那生死している<刹那輪廻>的12縁起の二種類があります。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若種類>