8月10日をもって、仏教書の翻訳終了、店じまい宣言をした私。
ただ、台湾でリトリートに参加した時に頂いた『禅修指南』(中国語版)を紐解くと、余りに分かりやすく面白いので、皆様に概略、紹介する事にしました。
そんな訳で、現在、毎日少しずつですが、文中の見出しを日本語に翻訳して、ブログにUPしているのですが・・・
今朝、<5-8>の翻訳を終えて、午後に翻訳する予定の
<5-9>の部分(中国語原文)をつらつら眺めるに・・・
「ああ、翻訳にはこんな有難い役得があるんだなぁ」と嬉しさ満開。
そこ(P112)には「四随観」すなわち、身随観念処、受随観念処、心随観念処、法随観念処に関する説明が載っていたのですが、その説明文とそこに添付されたパーリ語を読んで、いままで疑問に思っていたことが氷解、氷解!!
通常、身随観念処は、身念処(受、心、法も同様)と略して言われるので、身体(の姿勢、動作等)に対して、念でもってよく正知すればよいと理解されるのですが・・・
しかし、本書において、身随観念処のパーリ語は
<kāyānupassanā satipaṭṭhāna>
と書かれています。
これを
<kāya anu passanā sati paṭṭhāna>
と分けて、次に
<passanā> の前に <vi> を加えると
<kāya anu vi+passanā sati paṭṭhāna>
となります。
で、これで何が分かるかと言いますと、身随観念処・・・身念処は
<vipassanā>=<究極法の観察>、すなわち、物質の素粒子レベルの観察を言うのですね。
右足あげた、左手伸ばした というような身体の動きの実況中継は、vipassanā ではなくて、サマタ、またはサマタ以前、という事になります。
一冊の本を翻訳して、目から鱗に新しい知識、見解に出会うのは、一か所か二か所。
それでも翻訳をしなければ永遠に分からなかったかもしれないと思うと、翻訳作業は人の為ならず・・・自分が一番得するのですね(勿論、翻訳しないで、読むだけでも<目から鱗>は有り得ますが、やはり翻訳すると、一言一句に真剣に向き合ってよく思考しますから、自分の為に大いに勉強になります)。
午後に<5-9>の(概要抄)のUPしますので、上述の件、ご確認下さい。
(注)パーリ語は得意ではないので、anu とvi の文法的な解説は出来ませんが
anu は つき随う 、vi+passanā は深く、細かく観察するという意味があると聞きました。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>