皆様は 『言語道断』 という言葉を聞く時、その意味をどういう風に受け取られますか?
私が若い頃に、日本語で書かれた小説を読んでいて、この言葉が出てくるのは、たいていは、主人公が非常に怒っていて、一言も言葉を発せないほどだ、という場面に使われることが多かったと思います。
ただ、その後、中国語で書かれた仏教書を読むようになって、この 『言語道断』 という言葉は、そういう意味よりも、もっと深い内容を持っている事に気が付きました。
それは、修行者が、慧眼(心眼)でもって、vipassanā
(観禅)をしている時に(純粋な vipassanā または
サマタ+vipassanā)、観察している対象、すなわち、色聚・名蘊、または、色法・心法の刹那生・滅があまりに快速であるために、言葉でラベリングする事が全く不可能である、ラベリングをする暇が全くない、という時、修行者は、『言語道断』 という言葉でもって、その状況を表現しようとしているのだ、という事です。
例えば、八法聚(地、水、火、風、色彩、匂い、味と栄養素)の、その一つひとつが生・滅する場面を観察する時、その対象に、一つひとつ、ラベリングをする余裕など、全くない、という事です。
故に、パオ森林僧院では、ラベリング全面禁止。
初心者が安般念を初めて修習する時、数息観ならば、数を数えますが、観察している対象が何であるか、という
<概念へのラベリング> はしません。
仏教の修行の眼目は、究極法の観察を通して、存在の実相を悟る事であり、それはとりもなおさず、<概念から離れ>て、『言語道断』 の境地に至った時、初めて成就・成功するからです。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>