先日、タイ在住の知人と、<LINE電話> しました
(国際電話が無料なんて、便利な世の中になり
ましたね~笑)。
彼は、安般念(出入息念)の修行をしていて、
「サヤレー、vipassanā とは何ですか?」
と聞いてきました。
それで、パオ・メッソドの説明をして差し上げました。
安般念(出入息念)の修行をして、(ある程度)心が清らかになり、吐く息が、鼻の前で、太陽かまたはダイヤモンドの様に、光る様になったなら(これを似相という)、初禅に入る練習をする。
初禅に入れる様になったら、第四禅(数え方によっては第五禅。内容は同じ)まで、行ける様に訓練する。
その後に、禅定の光を利用して、身体内部を観察する32身分、白骨観、不浄観、四界分別観などの修行をする。
32身分~不浄観等々は、サマタ(瞑想の対象が概念、観念)である。
それができると、色業処と名業処、縁起(輪廻の確認)の修行をする。
この三種類は、サマタと、vipassanā の混合レベル。
まだまだ純粋な vipassanā には、到達していない。
思惟智から上の修行ができる様になって、初めて、純粋のvipassanā の実践と言える、云々。
「己の、心と身体の動きに対して、ラベリングをする修行は、 vipassanā ではないのですか?」
と問うので、
「違います」
「ラベリングが上手になる事は、今まで知らなかった、己自身の心と身体の動きへの、<気づき> が増えた、とは言えますが、それは、vipassanā瞑想 ではありません」
「vipassanā瞑想の対象は、究極法です」
と答えますと、
彼はちょっと考えて、
「世間では、vipassanā が商売になっていますよね」「vipassanā というと、人が喜々として、寄ってきますよね」
と言います。
私は僧侶なので、世間の商売に疎く、この辺の状況はよく分かりませんが、ラベリングの訓練自体は、vipassanā ではない事は、確かです。
仏教の修行を、ラベリングから入るのは結構ですが、将来において、色法(クォークの類)と名法の、刹那生・滅、または、その生・滅の因果関係を観察する 高度な
<vipassanā>までの道のりは、まだまだ遠い事は、明白です。
追伸:
1、安般念を入門としないで、四界分別観を入門の手段として修行する方の、修行手順は、上記とは異なります。
2、サマタ瞑想の、瞑想の対象は、概念、観念です。身体内部を観察する32身分で、これは胃、これは腸と、観察するのは、概念であり、サマタです。
3、慧眼で、色法の刹那生・滅を観察する時、禅定に入ったまま(一境性のまま)ではできませんので、第四禅(第五禅)から出て後、究極法の観察、すなわち、vipassanā を行いますが、この時に保持する定力は、刹那定といいます。
禅定から出ながらも、なお、一定の定力を保ちながら、刹那生・滅する色法(クォークの類)を観察するのは、刹那定による vipassanā の実践、となります。
4、ラベリング瞑想は、私も実践した事がありますが、いまだに、少々、後遺症に悩まされています。
身体のどこかが痛い時、これを無視して安般念に徹するか、または、注意力を <痛み> に向けて、黙って、黙々と、痛みの観察をした方がよいのに、つい、
「痛み、痛み」と声掛けを、してしまう。
実は、痛みは、次の瞬間には、痒みへと変化して行き、痒みから、また別の、名状しがたい状況を呈しますから、
ラベリングは、エネルギーのロス、と私は考えます。
勿論、これは全く、私の個人的な偏向、個人的な好みでありまして、ラベリング瞑想法がお好きな人を、批判している訳ではありません。
誤解なき様お願いします。
<緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>