世に《パオ・メソッド》という名の修行方法があります。
これを考案した緬甸パオ森林僧院の住職、パオ・セヤドーは、
「これは、ゴータマ仏陀の残した修行方法を、私が再発見し、再編成しただけであって、私が発明したのではないので、<パオ・メソッド>と呼ばないで欲しい」
と言う。
しかし、他によい呼び名もなく、パオ森林僧院で実践されている修行方法は、今もなお、特に外国では、<パオ・メソッド>と、呼ばれている様です。
以下は、私が、ミャンマーで聞いたお話。
パオ・セヤドーは出家されて、ある種の修行をされていましたが、
「この方法を続けていて、本当に悟ることができるのか?」
「この方法で、いずれは、涅槃体験できるのか?」
と疑問を持ち(注1)、経典とアビダンマ論書、注釈書、復注釈書を持って森に入り、一人で修行して、結果、
「《清浄道論=清浄之道》は正しい。以前の修行方法は捨てて、今後は、仏陀の教法、修行方法を反映している所の《清浄之道》と各種の注釈書、復注釈書に依拠して修行しよう」
と決めたとの事(その後に、モーラミャイン・パオ村にあるパオ森林僧院に招かれて住職になる)。(注2)
あなたは、どの様な方法で修行されていますか?
日本も、世界も、信教の自由がありますから、何を信じてもよいですし、どの様な修行をしても良いのですが、私は、自分の一生を無駄にしたくないので、
「この教え、この修行方法の為になら死ねる」
くらい信頼を寄せる教法と修行方法に出会って、それを実践したいものだ、と思っています・・・
(もっとも、地動説を主張したコペルニクスさえも、教会に殺されそうになって、自説をひっこめたくらい、真理の為に命を懸ける、殉教するのは、なかなか難しいものです)。
勿論、オ○ム真理教集団の様に、己自身では「最高の信仰を実践している」と思っても、それが邪教であることもあり得ます。
常に初心に帰って
「この教え、この修行方法は、己自身に必要不可欠であるか?」
「この教えは、自分にとって、リアリティーはあるか?」
(頭で考えた、のぼせた理想郷は、間違いを犯しやすい)
「自分は貪・瞋・痴の三毒を捨てて、心の浄化をなしえているか?」
「深く無常・苦・無我を理解し、体験し、慧眼でもって、観じているか?(サマタ・vipassanā を実践しているか?)」
「業を理解しているか?」
「業を理解するが故に、自己を許し、他者を許す事ができているか?」
と反省する必要があると思います。
大昔(私が30代の頃)、日本の禅寺で出会った禅修行者(在家、男性)が
「常に、行って、来い、行って、来い、ですよ」
と言っていましたが、正しいと思ったならば、その道を一歩、二歩、踏み出してみるけれど、内省もおさおさ怠らず・・・
《行って、来い》とは言い得て妙。
宗教実践者には、不可欠の態度だと思います。
(注1)=当時、ミャンマーでは、M修行法が大流行し、出家も在家も、皆、M修行法に取り組んでいました。現在、ミャンマーでは、M修行法に関して、その批判の書が出始めています。無常・苦・無我、究極法を体験する為の修行は、概念、言葉を超越した所に眼目がある為、その修行に、言語、ラベリングを多用するべきではない、というものです。禅宗で言う所の<言語道断>です。
(注2)=注意深い方、般若の智慧のある方は、パオ・セヤドーの名著『智慧之光(邦訳『智慧の光』)の冒頭に、ある種の修行方法への批判が書かれている事に気が付くと思います。何が書かれているか、確認されたい方は、是非、再読願います。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>