Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~5-17

8-5-2 禅相の色彩と形状に注意を払ってはならない

始めのころの禅相は不安定であるが、その時はまだ禅相に注意を払ってはならず、ただ呼吸にのみ、専注するべきである。あなたの、呼吸に専注する定力がますます深く、ますます安定するとき、禅相もまたますます安定する。

出現したばかりの禅相は、通常は灰色をしている。定力が向上すると、灰色は白色に変化し、その後に、光り輝く、透明な似相(paṭibhāga ninimitta)に変化する。禅相は、修行者の心頃または想(=思い)によって変化する:ある時、禅相は細長く、ある時は円形で、ある時は赤く、ある時は黄色になる、などなどである。あなたは禅相の色彩、形状または外観に注意を払ってはならい。そうすると、それは継続して変化し続け、あなたの定力は減退し、ジャーナに到達することができなくなる。

呼吸と禅相が結合して一つになるまで、一心に、ただ呼吸に注意を払わなければならないが、あなたの心が自動的に禅相に注意を払う時、その時には禅相に専注し、もはや呼吸に注意を払わないようにする。

ある時には禅相に注意を払い、ある時には呼吸に注意を払うようなことをすると、あなたの定力は徐々に減退する。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-18につづく)

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~5-16

8-5-1 安般念禅相とは何か

安般念禅相とは何か?

あなたの定力が十分に強いとき、呼吸は禅相に変化する。

呼吸は、心生色聚から構成されており、その中の一粒ごとの色聚の中には、少なくとも9種類の色法が含まれている、すなわち、地界、水界、火界、風界、色彩、香、味、食素、音、である。定力が強いとき、色聚の中の色彩も非常に明るくなる。ちょうと、前述したように、これらの色聚の火界は多くの時節生色聚を生じせしめるが、それらのの中にある色彩もまた明るいものなのである。呼吸の中には、数えきれないほど無数の色聚があり、一粒の色聚の中の色彩の明るさと、その他の色聚の明るさが結合して一つになる時、光明が生じるが、このようにして生じる光明が、すなわち、禅相なのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-17につづく)

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~1-15

8-5 禅相と光

もし、毎回の座禅・瞑想の時に、微細な呼吸に一時間以上専注することができ、かつ、そのような状態が、少なくとも三日間続くようならば、通常は、この時、禅相が出現する。

ある種の禅修行者について言えば、光は禅相が現れる前に、出現する;

ある種の禅修行者について言えば、禅相は、光の現れる前に、現れる。

(+光と禅相の)どちらが先に出現しようとも、禅修行者は、禅相と光の区別を知っておかねばならない。禅相と光は異なるもので、それは太陽と陽光が異なるのと同じである。

光は、あなたの身体または身体の周囲の、どこかの部分にも、どこの方向にも出現することができるが、禅相は、あなたの鼻孔の出口付近にしか、出現しない。

結生心以外の、すべての、心所依処に依存して生起する心は、多くの物質の微粒子を生じさせることができ、これを心生色聚と言う。

もし、それらを分析するならば、一粒ごとの色聚の中には、少なくとも八種類の色法、すなわち、地界、水界、火界、風界、色彩、香、味、食素(栄養素)が含まれているのを透視することができる。

もし、定力の強い心が生じさせた色聚であれば、その中の色彩は、非常に明るく、その光明は、あなたの全身のいたる所に出現する。

また、これらの色聚の中の火界は、多くの時節生色聚を生じせしめることができるため、それらの内部の色彩もまた明るい。

時節生色聚は、身体内部に散布されるだけでなく、身体外部にも散布される。散布される遠近については、定力の強弱による。

定力が強ければ強いほど、これらの色聚は、遠くまで散布される。光明は、これら心生色聚と時節生色聚の中の、色彩の明るさから、来ているのである。

そして、あなたは、それらの光明に注意を払ってはならず、ただ、呼吸にのみ専注するべきである。その時、呼吸は非常に微細になる。微細な呼吸を覚知するために、あなたは持続性と、適度の精進を維持し、微細な呼吸を忘れない事と、かつ、それをはっきりと知っているようにする。

もし、このように修行することができるならば、あなたの定力は引き続き向上し、安般念禅相もまた、あなたの鼻孔の出口の処に出現する。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-16につづく)

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~5-14

ただし、故意に呼吸を、長くしたり、短くしたり、または微細にしたり、変化させてはならない。

もし、このように呼吸をコントロールするならば、あなたの精進覚支と択法覚支は強くなりすぎて、定力は徐々に、減退する。

呼吸を自然な状態のままに、専注するべきである。定力が向上した時、呼吸は時には長くなり、時には短くなる。呼吸が永くても短くても、あなたは毎回の呼吸の、息の始めから終わりまでを専注すること、だけが必要とされる。

定力が更に向上した時、あなたは、呼吸が微細になればよい、という希望を動機として、全息への専注を継続する。呼吸が自然に、微細に変化した時、呼吸が長くても、短くても、あなたは微細な呼吸の全息について、専注し続けなければならない。

もし、一回ごとの座禅・瞑想の時に、あなたは毎回、微細な呼吸の全息に対して、一時間、または二時間以上、専注することができるとしたら、あなたの定力は相当にレベルが高い。

この時は大切な時期であり、あなたは慎重に修行を続け、一切の妄想と、人との交流を止めて、歩くとき、立ち止まるとき、座るとき、横になるときなどの、一切の時間において、必ず正念を保持し、一心に、呼吸に専注するべきである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-15につづく)

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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~5-13

どのような禅修行の業処であっても、それは、正念のある人、また、徹底的に明覚を得た人だけに成就を齎すものではあるが、しかし、この業処(=安般念)以外の、どのような業処も、専注すればするほど、業処が鮮明になってくるのである。

しかし、安般念は育成するには、非常に難しいのである。それはただ、諸仏、諸辟支仏と諸仏子の心だけが、まるで自分の家のように感じる場所なのであるから。

これは見過ごしてよい、小さな事柄ではなく、器の小さい人間が育成できるものでもない。

それに専注すればするほど、それは静かになり、また微細にもなる。故にここでは、非常に強い念と慧が必要となってくるのである。

それはまるで、非常に精巧な布地を加工する時には、細い針が必要なように、また、もっと細くて小さい工具で針の穴を通す必要があるように、同じく、精巧な布にも似た、禅修行の業処を育成する時、細い針は念で、それと相応する、針穴を通る工具は慧であり、その両方共が、強固で健全でなければならない。

比丘は、必要とされる念と慧を擁しておらねばならず、入息と出息の、通常の場合に、他の場所ではなく、とりもなおさず、それらが接触する場所において、それらを観察しなければならない。

以上が、息がはっきりしない時、如何にして安般念を修行するべきか、という解説である。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-14につづく)

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パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~5-12

上記(5-11)に述べたのは、修行の方法である。

禅の修行者は、禅修行の目標が顕現しない状況を知る必要があるし、また、以下のように思惟する必要もある:

「これらの入息と出息は、どこにあるのか?それらはどこにはないのか?それらは誰の中に存在しているのか?それらは誰の中に存在していないのか?」

このように思惟する時、彼は、母親の子宮内の胎児、溺水者、色界無想有情天の梵天神、死人、第四禅に入った者、色界または無色界に生まれたもの、滅尽定(滅尽定nirodha-sama-samāpattiは、心、心所、及び心生色法が暫定的に停止した境地)に入った者には存在していない、という事を発見する。

故に、彼は己自身に以下のように知らせる必要がある:

「あなた(=私)の智慧によって、あなた(=私)は、自分自身は、絶対に、母体の中にはいないし、溺水している訳ではないし、無想有情天にいる訳でもないという事を知り、または死亡しているかどうか、または第四禅に証入しているかどうか、または色界、無色界に生まれたかどうかを知り、または、滅尽定に入っている訳ではない事が知れる。

実際、あなた(=私)には入息と出息があるが、ただ、己の択法力が弱いために、それらを知ることができないだけなのである。」

その後で、心を、通常の場合において息が接触している場所に固定させ、引き続き、それに注意を払うべきである。

入息と出息は、鼻の長い人には、鼻先に当たり、鼻の短い人には、人中に当たる。故に、あなたは、以下のようにして、当該の相に専注しなければならない:

「ここが、それらのぶつかる所である。」

これが、なぜ世尊が:

「比丘たちよ。私は、正念のない人、徹底的に明覚していない人は、安般念を修行する事ができる、とは言わないのである。」と述べた理由である。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-13つづく)

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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-13

(一)心の専注とは何か?

非常に多くの修行者は、修習を始める、その最初に、己の心に雑念があることを発見すると、過度に心配し、憂鬱になる。

実際は、修行者が、雑念に追随しないか、または陶酔しない、という態度を取ることができたならば、己自身を必要以上に責める必要はない。

(+今の自分に)心内に雑念があるのは、正常な現象である。

たとえ、近行定の段階にあっても、雑念は、生起するものであり、ただ、心を修行の目標に、静かに、そっと、引き戻せばよいのである。

正しい心理状態とは、あなたの心が、禅の修行の主題を体験しておれば、それでよく、あまり過度に目標に固執、固守する必要はない。

まさに、一人のピアニストが、楽曲を演奏している時、彼は、目は楽譜を見ており、指はピアノの鍵盤を弾いており(ある時には、楽譜を捲るときもある)、足はペダルを踏み、耳では自分が弾いている音楽を聴いていて、身体は、音楽の旋律と共に揺れていることがある。

彼は、同時に、これらの多くの活発な動作を行うことができるが、その時まさに、彼は予備定の状態の中にいるのである。

同様に、あなたが定を修習する時、己の心を活性化させる必要があり、修行者は、心を死んだように、修行の目標の上に閉じ込めて、それを「定」の唯一の状態だと思っては、ならない。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-14につづく)

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>