どのような禅修行の業処であっても、それは、正念のある人、また、徹底的に明覚を得た人だけに成就を齎すものではあるが、しかし、この業処(=安般念)以外の、どのような業処も、専注すればするほど、業処が鮮明になってくるのである。
しかし、安般念は育成するには、非常に難しいのである。それはただ、諸仏、諸辟支仏と諸仏子の心だけが、まるで自分の家のように感じる場所なのであるから。
これは見過ごしてよい、小さな事柄ではなく、器の小さい人間が育成できるものでもない。
それに専注すればするほど、それは静かになり、また微細にもなる。故にここでは、非常に強い念と慧が必要となってくるのである。
それはまるで、非常に精巧な布地を加工する時には、細い針が必要なように、また、もっと細くて小さい工具で針の穴を通す必要があるように、同じく、精巧な布にも似た、禅修行の業処を育成する時、細い針は念で、それと相応する、針穴を通る工具は慧であり、その両方共が、強固で健全でなければならない。
比丘は、必要とされる念と慧を擁しておらねばならず、入息と出息の、通常の場合に、他の場所ではなく、とりもなおさず、それらが接触する場所において、それらを観察しなければならない。
以上が、息がはっきりしない時、如何にして安般念を修行するべきか、という解説である。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-14につづく)
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>