問1-2 禅修行の時、必ず禅相(nimitta)は必要でしょうか?
答1-2 ある種の業処(kammaṭṭhāna)、例えば入出息念、十遍、十不浄(Asubha)には、禅相は必要である。もし、その他の業処を修したい場合、例えば仏随念(Bhddhānussati)には、禅相は必要ない。
慈(Mettābhāvanā)の修習に関しては、限界突破を禅相と呼ぶ事がある。
問1-3 ある種の人々は、入出息念を修行する時、彼らの霊魂が体外に出て行くと言います。この様な状況は本当にあるのでしょうか?それとも、彼らは間違った修行をしているのでしょうか?
答1-3 専注する心は、禅相を生じせしめる。定力が重厚で、かつ、強くて力がある時、異なる想が原因で、異なる禅相が生じる。例えば:もし、あなたが禅相を長くしたい時、それは長くなる;それを短くしたい時、それは短くなる;それを丸くしたい時、それは丸くなる;それを赤くしたい時、それは赤くなる。
この様に、入出息念の修習をする時、各種の、異なった想が生じる可能性がある。
あなたは、己自身が、己自身の身体から抜け出た様な感覚を覚えるかも知れないが、それはただの心的錯覚に過ぎず、霊魂とは関係がない。この事は大きな問題ではない、それに構わず、(心が)戻ってきて、引き続き息に専注すれば、それでよい。
ただ内外の究極名色法(paramattha-nāma-rūpa)を識別できる様になった時にのみ、あなたは、霊魂の問題を解決することができる、所謂「霊魂」はどこを探しても見つからないものだ。
故に、あなたは名色法の密集(ghana)を看破し、究極名色法を透視しなければならないのである。
”Nānādhātuyo vinibbhujitvā dhanavinibbhoge kate anattalakkhṇaṃ yāthāvasarasato upaṭṭhāti. ”
「異なる界を分別し、かつ密集を看破する時にのみ、無我相(anatta-lakkhaṇa)が、自性に基づいて現起(現象)してくる。」(Vm. 739)。
密集の概念があるが故に、霊魂の概念が生じる。
色法に関しては、三種類の密集(ghana)<注106>がある。(答1-3続く)