翻訳『親知実見』Knowing and Seeing #31-10
問3-5:どの様な状況の時、禅修行者は、安止定から、近行定に落ちて、近行定に戻るのでしょうか?
どの様な状況の時、近行定の禅修行者は、安止定に進むことが出来るのでしょうか?
答3-5:もし、禅修行者が、禅の修行に対して、敬う心がなく、心が似相以外の、その他の対象に向かう時、多くの障礙(nīvaraṇa)が生じる。
不如理作意(ayoniso manasikāra)によって、多くの貪愛と瞋恚怨恨による妄想が生起する。
これらの対象は、定力を削り取って弱くする、というのも、善法と不善法は対立するが故に。
善法が、強くて力のある時、不善法を遠離することができるが、しかし、(不如理作意が原因で)不善法の力が強い時、善法は遠離される。
善法と不善法は、同じ一つの心識刹那または心路の中において同時に生起する事はできない。
ここにおいて、我々は、如理作意(yoniso manasikāra)と不如理作意(anoniso manasikāra)を理解しなければならない。
禅修行者が、入出息念を修習して、自然の呼吸に専注する時、彼の作意は、如理作意である。
取相または似相が出現して、禅修行者がそれに専注する時、彼の作意もまた如理作意である。
観禅の時、禅修行者は、
「これは色法である」
「これは名法である」
「これは因である」
「これは果である」
「これは無常である」
「これは苦である」
「これは無我である」
と観照する時、彼の作意は、如理作意である。
しかし、彼が
「これは男性、女性、息子、娘、父親、母親、天人、梵天人、動物」などなど
「これは金銀、財産」など
と思う時、彼の作意は、不如理作意となる。
一言で言えば、我々は、如理作意によって、多くの善法が生起し;不如理作意によって、多くの不善法が生起するのだ、と言える。
あなたが禅修行をする時、不如理作意を知らず、それに気が付かないでいるならば、諸々の蓋または煩悩は、それに従い伴って、生起する。
それらは不善法であり、これらの不善法は、定力を削ぎ弱め、またはこれを退失し、堕落せしめるのでる。
もし、あなたが如理作意によって、継続的に禅修行の業処に専注するならば、善法は生起し、かつ成長・強化されるが、ジャーナ善法もまた、これらの善法の中に含まれる。
こういうことであるが故に、もし、あなたが不断に禅相、例えば入出息似相に専注するならば、これは如理作意である。
もし、この種の如理作意が、完全で強力なレベルまで育成されたならば、あなたは近行定から安止定に進入することができる。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>